境界線のあれこれ 10 <片手で援助、片手で搾取>

途上国で粉ミルクがどのような影響を与えたのかについて語られてきたことをもう少し具体的に見ていく前に、多国籍アグリビジネスに対する批判のひとつとしてネスレ・ボイコットが行われ始めた時代、そこにはどんな考え方があったのか自分が影響を受けたことからの回想を書いてみようと思います。



<背後カロリー>


1980年代半ばに難民キャンプで働いていた時に、同僚のアメリカ人スタッフに勧められた本がありました。
正確な題名も著者も忘れましたが、「背後カロリー」について書かれたものでした。


背後カロリーとは何かというと、たとえば肉1kgを生産するのにかかる飼料その他を、どれくらいの石油が必要かという意味でのカロリーに換算するものです。
とうもろこしその他、家畜の飼料用に生産された農産物に置き換えると、私たちは肉を食べるというのはその何倍(あるいは何十倍)もの穀物を摂取することになる、それを製品化したり輸送するためには途方もなく石油を必要とするという考え方でした。


なんと私は贅沢なことをしているのだろうと、心を動かされました。
そして、にわかベジタリアンになったのでした。



その飼料になる穀物は途上国の国で安く生産され、途上国の人々の食糧を生産するはずの農地を奪いそこから利益を得ているのが多国籍アグリビジネスである、というのがスーザン・ジョージ氏らの「世界の半分が飢える」理由でした。


飽食の世界と飢餓の世界。
実際に、戦火をのがれボートピープルとして難民になった人たち、あるいはその難民を受け入れる側の途上国の貧しい人たちの生活を前にして、私は自分が豊かな国に生まれたことさえも罪深いことではないかと、自分を追い詰めていきました。



<片手で援助、片手で搾取>


当時、さらに私のその罪悪感を強めたのが、先進国というのは片手で援助をしながら片手で搾取をしている、というものした。
たしか「右手で援助、左手で搾取」だったと思います。
調べてもこの言葉がどこから出て広がったのか見つかりませんが、当時はよく耳にしました。


なぜ私は医療援助する側の日本に生まれ、なぜ援助をされる側の人たちがいるのだろうと、答えの出るはずのない問いがずっとあったので、この言葉も私の心にストンと入っていきました。


植民地主義の時代から戦後の新植民地主義と言われる時代まで、経済的に豊かな国というのは資源を求めて世界中へその力を広げていきました。


第二次世界大戦後はあからさまに武力をもって資源を収奪することはなくなった代わりに、開発途上国援助というシステムで途上国の政治経済に介入する方法ができあがりました。


有償援助(借金として返済が必要)あるいは無償援助として、道路・空港・漁港などの大規模なインフラ整備を行います。
途上国側の会社の技術では難しいので、先進国側の企業が受注して利益を得ます。



インフラが整備されると、熱帯雨林は伐採され安い材木として輸出されました。
伐採されたあとの土地は、ココヤシやとうもろこし、果物など先進国向けの農産物を生産するための広大なプランテーションになりました。


あるいは、東南アジア各国には日本の無償援助で建設された漁港が何百とあります。最新の設備の漁港からは、日本向けに魚が輸出されました。
それは地元の沿岸漁業の構造を大きく変え、根こそぎ魚を獲る方法が広がりました。


開発援助で建設された最新の空港や港からは、エビやバナナ、果物、あるいは生花などが、新鮮な状態で先進国の食卓へ向けて輸出されていきました。


「経済のパイが大きくなれば、貧しい人たちの取り分も増える」
確かにそういう面もあるかもしれませんが、現地で見た限りは、やはりこうした開発援助の恩恵は先進国へ還元されていくほうが多いと感じました。


当時の私は、現地に進出していた多国籍企業ロゴマークを見ると、憎しみのような感情が湧き上がっていました。


ネスレ・ボイコットへと人々を突き動かした感情も、これと似ていたのだろうと思います。






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