2人がようやく並んで歩けるほどの幅の歩道が、通勤途中に何ヶ所かあります。
このような道ですれ違うときの行動は、人それぞれですね。
ある人は少し手前の広いところで待って、私を先に行かせようとしてくれます。
ある人は、それぞれが歩きながらすれ違えるようにと微妙に体をずらしてくれます。
ある人は全く私の存在が目に入らないかのように、スペースを明けてくれる訳でもなく、ひどい場合には私が少しよけてもさらにぶつかってきたりします。
ほんと、人それぞれですね。
ここでマナーとか社会のルールを考えると、むしろ「それができていない」人に対して批判的な感情になりやすく、以前はよくカッカしていました。
最近は、こちらやこちらで書いたように、人口密度の高い社会で鍛えられた行動であったり、あるいはこちらに書いたように
何か事情がたまたまあって急いでいたのかもしれないと考えるようにしているので、あまり腹が立つことはなくなりました。
反対に私がちょっと脇によけて相手を先に通してあげた時に、小学生や中学生ぐらいの子どもたちが「ありがとうございます」と言ってくれると、思わず「大人だなぁ」と感激してしまうのです。
どうして「大人だなぁ」と感じるのだろう、何が大人なのだろうとあれこれ考えてみました。
<人間関係を客観視できるかどうか>
もしかすると、他者の行動をどれだけ認識しているか・・・と言うことかもしれません。
道を譲って「ありがとう」と言えるのは、狭い道でそれぞれが好きなように歩けばぶつかってしまう状況がわかり、さらに相手が道をあけてくれたことを認識できたからこそ言えます。
もちろん、中には道をあけてくれたことはわかっていても照れくさくて知らん顔の人もいることでしょう。
もしかしたら「ありがとう」まで言えた子どもは、自分もありがとうと言われてうれしかった体験をもとに、恥ずかしさを越えたのかもしれません。
狭い道で譲り合うという小さな行動でも、そこには状況を判断し相手の存在を認識し、相手ににとっても自分にとっても良い選択をするための思考が必要になります。
お礼をいってくれたかどうかよりも、その状況で他者との関係を考えていることが伝わった時に「大人だなぁ」と感じるのかもしれません。
<AdultとParent>
こちらの記事で、交流分析にAdult,Parent, Childrenという自我状態モデルがあることを紹介しました。
小学生に道を譲って、その小学生から「ありがとう」と言われた時、その関係は「I'm OK.You are also OK」でAdultとAdultの関係といえます。
40歳以上の年の差を越えて、対等に感じるのです。
ParentもAdultも「大人」であるように感じますが、ちょっと違うニュアンスがあります。
wikipediaの「交流分析」ではそれぞれ、以下のように説明されています。
Parent
人々が、無意識のうちに両親(または親の代わりとなるもの)の行動パターンを模倣して、行動し、感じ、思考する状態。
例えば、影響力のある人が怒鳴りつけているのを見て、それが有効であると幼い頃に学んでいたら、その人も欲求不満から人を怒鳴りつけるかもしれないことが挙げられる。
そしてParentは、寛容で養育的な親と規範的な親の二つに分けられています。
Adult
これは「今ーここ」でどのようなことが起きているのかについて人々が行動し、感じ、冷静に思考する状態。
この状態では、長年生きてきた大人としての人間の経験、知識が活かされ、人を行動させる。このA(Adult)の自我状態では、自身は現実における客観的な評価の対象として見られる。
誰の心の中にも、Parentの部分とAdultの部分の葛藤があることでしょう。
私の両親は大声で怒ったりすることのない人でした。その代わりに怒りを心に留めようとするためか、しばらくはしゃべらないことがしばしばありました。
子ども心にその沈黙は恐ろしい時間で、よその家のように怒鳴ってもいいからすっきりすぐに終わってくれればいいのにと思っていました。
でも本当に親の背を見て育つのですね。
高校生頃から、私も友人に対してしゃべらなくなる時がありました。
相手が私の機嫌を気にしていることは痛いほどわかるのに、友人に対しての不満を言えずに心に溜め込むと、そういう態度になってしまいました。
葛藤の中で、親と自分の行動を何度も何度も振り返っているうちに、「面と向って言うことで相手を不快にさせてしまうのではないかという不安」と「黙ってしまって相手に不要の気遣いをさせてしまう不安」のバランスのとり方が少しずつわかってきて、ちょっと私もその点ではAdultになったかなと思っています。
ParentとAdultの違い、そんな感じでしょうか。
「大人ってなんだろう」、もう少し続きます。
「境界線のあれこれ」まとめはこちら。