「感情移入という自分中心主義の手法」

「エビと日本人」村井吉敬(よしのり)氏、1988年、岩波新書)の題名について、私が感じたことを以下のように書きました。

「エビと日本人」
この感情を抑えた題名と内容だからこそ、今では必ず書店で目にするほど多くの人に読まれる本になったのだと思います。


ところが鶴見良行氏は「東南アジアを知る −私の方法ー」(1995年、岩波新書)の中で、「バナナと日本人」はむしろ感情移入させやすい手法をあえてとったと書かれています。


<途上国の問題を伝えることの難しさ>


その本の中では、東南アジアという地域にさえ関心の薄かった時代に、そこで起きている問題が日本の生活と関係があるということを伝えるためにいろいろと考えたことが書かれています。


相手が知りたいと思うように働きかけるにはどうしたらよいか、「地理」と「感情移入」として以下のように書いています。

「世界には、さまざまな人がいる」という発想から、日本とは実体的なつながりのない土地やそこの住民について書けば、それは日本人の感情に訴えない”地理書”になってしまいます。そのままの形でいくらか訴えるところがあるとすれば、安直な”探検物”になって、”日本に消えつつある自然をそこに求める”という形になります。

”地理書”の方向とは逆に、何らかの実際の関係があり、したがって読者にとっては”感情移入”のしやすい実例をあげて説明するというスタイルもあります。
 私が後に執筆した『バナナと日本人』は、意図的に、そうした手法で書かれています。

たしかに、バナナやエビと聞くだけで、すでに自分の生活との関係を感じてなんらかの「感情」を刺激するし、まして「日本人」がタイトルに入っていればそれぞれの心にそれぞれの心のざわめきのようなものを起こすには十分な、絶妙のタイトルなのかもしれません。


<「感情移入」の難点>


鶴見良行氏は、「感情移入」という手法について有効な場合と難点のある場合を次のように書いています。

 ”感情移入”というのは、実験心理学ゲシュタルト心理学でよく使われる用語で、プロジェクション、そこに自分を投げ込む、投影するヒト族の働きをいいます。心理学や文学のうえでは、これは有効な手法ですが、多民族間の関係をリポートするルポタージュや歴史を分析するときには、かなり重大な難点を生みます。

”感情移入”というのは、自分の体験を中心とした相手への投入ですから、あくまで自分中心主義です。そこに難点があります。日本人読者にたやすくわかってもらえることを狙って”感情移入”の回路を走れば、自分に関係のある問題しか見えなくなります。

これは多民族間や途上国の問題を伝える場合に限らず、医療など、自分達の社会の中の問題を提起する場合にも同じではないかと思います。


たとえば「自然なお産」の流れを振り返っても、この”感情移入”の手法に翻弄されてきたように思います。


鶴見良行氏は、こう書いています。

”感情移入”という自分中心主義の手法では、本質的な歪みをこわす力を失ってしまいます。

バナナを食べないことや医療を否定するといった感情に押された行動では、「本質的な歪み」(言い換えれば「問題の根本」でしょうか)は見えてこない。
そんなところでしょうか。