「本質の歪み(問題の根本)」はどこにあるか

なぜ松井やより氏鶴見良行氏のことを思い返していたのかというと、アピタルというサイトの「妊婦は患者?!」という記事がきっかけでした。


人が何かを書くのは誰かに何かを伝えたい、そして相手の行動に影響を与えたいからでしょう。
そこには社会をよくしたいという思いがあると思います。


アピタルの記事では、「『(とりわけハイリスク妊婦)が、'できるだけ医療介入のないお産’を願うのはわがままなことだろうか?』という想いが消えない、複雑な妊婦心です。」という最後の一文を、書いた御本人が「当事者」として最も伝えたかったことなのだろうと理解しました。

妊娠糖尿病として医学管理が必要な状態になったことで不安もたくさんあることでしょう。
思い描いていた妊娠・出産のスタートが違ってしまった方々の葛藤には、私たち産科関係者もその気持ちをいったん受け止める姿勢が大事だと思います。
あるいは入院・通院中の医療の対応に、「こうして欲しい」「こういう説明が欲しい」などあることでしょう。
「当事者」として、ありのままの思いを言葉で表現できる方はなかなかいらっしゃらないものです。
この方が専門とされてきた書く力でそれを表現してくださったら、妊娠糖尿病の妊産婦さんのケアにどれほど生かせることでしょうか。


ところで、上記のその想いを、医療側の当事者である医師や看護職に直接尋ねてみられたのでしょうか?


もし尋ねたら、きっとこんな答えがかえってくるでしょう。

妊娠糖尿病合併の出産でも、できるかぎり医療介入がないように願うのはわがままではないですよ。血糖値がよくコントロールされていれば、自然な陣痛を待ち、自然な経過を待つことは可能です。必要があれば、お産を進めていくような処置をしましょう。

そして日々、分娩に関わっている私たちの「当事者」としての思いを医療ライターとして尋ねてくださったら、出産でヒヤヒヤしたことを何時間でも、いえ何十時間でも語ることでしょう。





<「お産はルーティン」>


ところが、「『妊婦は患者』とばかりに管理されている印象」を受けた理由のひとつとして、分娩誘発の様子を見聞きしたことが書かれています。

毎晩仕切り越しに聞こえてくる「子宮口を開くための器具を入れますので、21時に処置室に来てください。一晩寝ていただいて、明日8時に処置室へ。(以下略)」おおまかに言えばこんな感じの内容の看護師さんの説明を聞きながら、「お産はルーティン」という思いを深くする日々。

これについても、「ここでは全てのお産をこうしてルーティンとして扱っているのですか?」と医療者側に直接尋ねてみれば、おそらくこういう答えが返ってくることでしょう。

全員にしているわけではありません。子宮口を開かせる必要がある方には前日の処置をし、点滴の誘発が必要な方には誘発分娩をしています。

決して「お産がルーティン」ではないはずです。
あるいは、その処置を受ける産婦さんのお気持ちを確かめたのでしょうか?



筆者が「ルーティン」と感じたことを、医療者側に語る機会を与えてくれれば、その手順(ルーティン)が標準化されるまでには、「行間を読む」で書いたようにたくさんの犠牲の歴史があったということも説明したことでしょう。

でもその歴史をさかのぼってみると、たったひとつの疾患名あるいは数行の行間にはどれだけの歴史がこめられていたのかと思います。


そういう過去の数え切れない無念さや苦労の積み重ねの上に得られた本質の部分を、現代の私たちは「知識」として意図も簡単に知ることができてしまう。

「出産への医療介入批判」という知識は簡単に知ることができますが、そこに感情移入をすると「本質の歪み」(問題の根本)がどこにあるのかを見失ってしまうのではないかと思います。



<現実の問題を解決するために何を伝えるか>



社会の何かに疑問を感じ問題を認識した時に、「良くしたい」と思い、何か行動しようと思うことは大事なことだと思います。
こうしたブログやtwitterなどで言葉に表現し、誰かに影響を与えることを期待した行動もひとつだと思います。
あとで考えれば、独善的で赤面するような行動や思考をしていた過去は誰にでもあるのではないかと思います。


前回の記事で紹介した鶴見良行氏は、平和運動や途上国の開発問題などで市民運動に関わり続けた方です。
その鶴見氏が「東南アジアを知る −私の方法ー」(1995年、岩波新書417)の中で、日本の市民運動への考えを以下のように書いています。

しかし、知は知だけで力になることはありません。知は運動と結びついて初めて力となります。日本の今日の運動の多くは、議会制民主主義やイデオロギー運動を別にするとーそれを別にするのは、そこから新しい第三世界についての認識が生まれてきそうにないからですー被害者の運動です。

「日本の運動の多くは被害者の運動です」
これは、その直接の被害者という意味よりも、「被害者」を作り出しその「被害者」に感情移入したという意味でしょう。
これは先の原発事故後の混乱を見ても感じます。

市民運動は、こうした性格を持っています。痛みがあるから運動には馬力があるが、力だけでは暴力になりかねない。無知は恐ろしいのです。

この場合の「無知」は「知識の欠如」というよりも、「(作り出された)被害者」だけを当事者とした視線といえるのではないかと思います。


たとえば「自然なお産」では、「思うようなお産ができなかった」という「被害者としての感情」を力としてきた部分が大きかったと思います。


けれども、出産にはさまざまな当事者がいます。
医療の力が必要でそれを納得している方もいらっしゃいます。
声を出すことができない胎児や新生児も当事者ですし、私たち医療従事者もまた当事者です。
それぞれの立場で語るものがあるはずです。



誰を当事者とし、何を語らせるか。
語る時には語り、相手に語らせて耳を傾けることも大事だと思います。


社会をよくしたいと思った時には、まずさまざまな当事者の声に耳を傾ける。
それが最初の一歩だと思うこの頃です。