境界線のあれこれ 20 <虚像と実像>

活字中毒で一週間に何冊も本を読んでいた私が、めっきり本を読まなくなったことはこちらの記事に書きました。


老眼鏡(とは書きたくない)はすっかり体の一部になじんで、こうしてブログを書く時にいろいろと資料を読むのには苦痛を感じなくなったのに、なぜか本を1冊読むことに気持ちが向きません。


以前は、図書館や書店にいくと隅から隅までまわって、さまざまなジャンルから読みたいと思う本が出てきて困るほどでした。
最近は、たまに読みたいと思う本に出会うぐらいです。


<昔出会った本を読み返す>


ひとつは、犬養道子氏や伊丹十三氏のように20代の頃に影響を受けた人や、村井吉敬氏や鶴見良行氏あるいはダナ・ラファエル氏のように30代以降に影響を受けたり購入した本を、もう一度読み返したいという気持ちが強くなったことがあるかもしれません。


当時、私が読み飛ばしていた部分にこそなにか本質的なことが書かれている、そんな発見がたくさんあるこの頃です。


ですから新しい話題の本で知識を増やすことよりは、以前読んだ本の行間を読むことで自分が本当に理解しているのか、行きつ戻りつ考えることをしたいという思いが強くなってきました。



<感情を抑えて本を読む>


20代、30代の頃には、よく「運命の出会い」を感じさせる本がありました。


でも今考えるとあまたにある本の中で、自分が「こういって欲しいもの」が書かれている本だけしか視界になかったのだろうと思います。
それ以外の、さまざまな考えや価値観には耳を塞ぎ、自分の信じたいことが書かれている本を無意識のうちに選択していたのでしょう。


たとえば助産師になった頃は、「自然なお産」「伝統的なお産」あるいは各国の助産師の活動のような本をのめりこむように読んでいました。
そうした本には昔のお産でお母さんが、そして赤ちゃんが死んでいることもさらりと書いてあるにもかかわらず、です。


ようやく今は、そうした感情に訴える本に近づく時には、歴史や価値観の変遷まで頭に入れて慎重になることができるようになりました。


むしろ、昔はつまらなく感じた教科書や周産期医学の本のほうが、何度読んでもその行間に書かれていることが次々と浮かんでくるので、時間を忘れるほど没頭していることがあります。


<主張したい人の声は大きくなり虚像が作られる>


本を読まなくなったのと同じ頃から、ニュースを見ることが少なくなりました。
以前は、ニュースを知らないと時代に後れていくのではないかと不安になり、必ず目を通していました。


最近はむしろ、「なぜこのタイミングでこの報道が選択されるのだろう」という裏の事情がなんとなく感じられるので、ニュースそのものを知ることには関心がなくなりました。


たとえば最近の「和食が世界遺産に」というニュースも、なにか普通に生活している私たちの感覚からは唐突な雰囲気です。
急に、「和食」「和」「日本」が連呼されていくこの雰囲気に流されてはいけない、と直感的に感じます。


ニュースではないのですが、NHKのドラマでは出産のシーンというと「畳の上で好きな格好で助産師だけの介助で」がお決まりのように使われます。
昨年は、民放でも無介助分娩を「自力出産」と言い換えて放送していたようです。
多くのお母さん達からすると別世界の人たちのことに感じる出産の方が、メディアを通すとあたかも「実像」のような錯覚をいだかせるこの力関係は何なのでしょう。


こうした実像と虚像を見極めるためには、何が必要なのでしょうか。
そんなことを考えながら、今年もブログを続けていければと思います。




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