掃除は誰のため? −publicという概念ー

前回の記事で紹介した犬養道子氏の「ラインの河辺ードイツ便り」(1973年、中央公論社)で読んだ内容で印象に残っているのが、
ドイツでは窓が汚れていると近隣の家から苦情がくるというものでした。


最初は、「近所迷惑だから?」「不愉快だから?」「ルールだから?」と理由を考えてみましたが、日本の感覚なら「多少窓が汚れていても誰に迷惑をかけるわけでもないでしょ」ということで終わってしまいそうです。


手元に本がもうないので記憶ですが、家の前の道の雪かきもしていないと近所から苦情が来るとかかれてあったと思います。


雪かきならば当然と考えるかもしれませんが、ドイツの場合、その家の前で誰かが滑って怪我をしたら、その家の住人に責任が課されるという厳しいものでした。


また冒頭のサイトの感想にも書かれているように、当時、日本では古紙回収ぐらいしか行われていなかったリサイクルについて書かれていました。
瓶や缶をきちんと洗浄して、分別して出すシステムがあること。
それを守らない場合には、罰則もあったと書かれていたような記憶があります。


1980年代の日本には、まだ「資源ごみ」とか「リサイクル」という言葉は浸透していませんでした。
何でも燃やしてしまうか、夢の島に捨てて埋め立てるしかなく、自分が捨てたものの行方を考えることはない社会でした。



<個(private)と公(public)>


犬養道子氏の著書の中に「公」とか「公共」について書かれた部分があったかどうかは記憶があいまいなのですが、当時もう一人、私が影響を受けた伊丹十三(じゅうぞう)氏の本の中で、ヨーロッパの「公共」について書かれた部分がありました。


たしか、ヨーロッパの市町村などは広場を中心にして広がっていること、広場や公園では誰が演説などをしてもよい公的な空間であるといった内容だったと記憶しています。


wikipedia「公共」をみると、「公共への貢献の形」の中に以下のような説明があります。

ヨーロッパでは、自分が所属する地域や共同体という概念が発達し、商業などで富を蓄えた者は共同体への寄付という形で、公園・広場・噴水・像などを作成し、誰でも使え、また見ることができるといった方法で寄贈することが多かった。

この公共という言葉はまだ明確な概念がないようで、wikipediaを読んでもなかなかピンとこないものかもしれません。
とりわけ「個人としての私」の「個人」さえあいまいな日本においては、何に対しての公なのかがわかりにくい社会かもしれません。



英語の授業の最初にとまどったのが、どのような会話でも「I」なのか「We」なのか、それとも「You」や「He/She」なのかを必ず明確にしなければいけないことでした。
ただ漠然と「私たち」と使う日本語の感覚にはない、「個」としての私を意識させるものです。


「個」が明確だから、「公」が何であるかがわかる。
そんなことを犬養道子氏の本から感じ取ったのが、20代初めの頃でした。


そしてヨーロッパの美しい街並みや庭の写真を見るたびに、個人の楽しみや趣味というよりも公共性がそこに感じ取られるのです。


掃除ひとつをとっても、privateではなくpublicを意識している社会があるのかもしれません。




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