境界線のあれこれ 22 <夢か現(うつつ)か>

自分の小さい頃からを思い返してみても、「死」を現実に感じたのがいつ頃なのか記憶にありません。


家族や親戚の葬儀も体験がなかったくらいなので、初めて死を実感したのは看護学生になってからでした。


看護学生の1年生の時に、解剖見学がありました。
看護学校が付属していた病院で病理解剖が行われると、数人ずつ学生が呼び出されて見学をさせてもらうのです。
授業中でも連絡があれば行くことになっていました。


いよいよ私たちのグループも呼ばれました。
お昼前の時間でした。
病院の地下にある病理解剖室は、ひんやりとしていました。
目の前に50代初めの男性の亡骸が金属性の台に横たわっていました。
黙礼をしたあと、病理医の先生が薄紫の死斑が出ているその体にメスをいれた瞬間、赤黒い出血が出たところまでは記憶にあります。
亡くなっても同じように血が流れることに、不思議な気持ちだったのでしょう。
そこから後は何を見学していたのか、ぷっつりと記憶が途絶えています。



そして不思議なことに、そのあと見学したグループの仲間とお昼ご飯に何を食べたかはしっかり覚えています。
皆、だれもおしゃべりをせずに黙々と食べていた状況が昨日のことのように思い出されるのです。
そしてその日の夜はやけに風が強く吹いていました。
その風の音とともに、あの男性の顔が目の前に浮かんできて眠れなくなったことも記憶しています。


あの日が、私が初めて人の死体を見た日でした。


<死の映像が日常的な生活がある>


卒業後は勤務した外科と内科病棟で、何十人もの死を直接看取りました。
ついさっきまで呼吸もして体も温かかったのに、時には直前まで意識があって声をかければうなづいてくれたのに、どうやってもこちらには呼び返すことができない境界をこえてしまうのです。


その患者さんと関わった時間の長さには関係なく、どの方にも思い出があります。
悲しいはずなのに感情が凍結したかのようになってしまい、夢か現かわからない気持ちになるのです。
最初の頃は、仕事だと割り切っているから涙もでない非情な人間のように自分が思えて、自己嫌悪に陥ることもありました。


日本の社会ではテレビで殺人場面をしょっちゅう目にしますが、あくまでもフィクションの世界で、本当の亡骸を日常的に見る機会がある人というのはとても限られていることでしょう。


1980年代から90年代にかけて生活した東南アジアのある国では、死がもっと現実に身近なものでした。


反政府組織に対する政府軍の掃討作戦が各地で行われていましたから、新聞にはどこで何人死んだかという報道が毎日のように書かれていました。
あるいは反政府的な運動に参加したことでサルベージされた人の惨殺体の写真やビデオが、見せしめのようにニュース番組内で放送されるのです。


そういう惨殺された人の写真がテレビに映っているのを、6〜7歳の少女がじっと観ていました。
表情からは恐怖が読み取れないほど、無表情のままでした。


仕事柄、他の人よりは死体を観る機会が多い私でも惨殺体を観ることはショックでしたが、それをまだ年端もいかない小さな子どもが観ている社会があることにもっとショックを受けたのでした。


あの少女がテレビを無表情のままに観ていた光景が、くっきりと記憶に残っています。
その情景そのものが夢か現かわからないくらいに。






「境界線のあれこれ」まとめはこちら