「死亡率の改善という努力の代償はあまりにも残酷すぎた」

今日の記事の題は、デーリー東北新聞の2012年2月9日の記事「再考 地域医療 (4)産科の危機 高齢化が進む開業医」の中に書かれていた、産婦人科医の言葉です。


その記事には、2011年に八戸市内の分娩の4分の1を担っていた開業産科施設が一時的に分娩受け入れを中止することが地域に大きな負担を与える様子が書かれています。


そしてその背景には、産科医の減少と開業医の高齢化があります。

岩手県からも妊婦を受け入れる八戸地域で、産科医療の危機は以前から指摘されてきた。24時間365日の激務、医療過誤をめぐる訴訟の多さなどを背景に、産科医を志望する医師は年々減少、それに伴い、開業医の高齢化と後継者不足が顕在化していた。

「昔からこうなることは分かっていたはずだ」と語るのは、青森県医師会副会長を務め、八戸市内で産婦人科医医院を開業していた小坂康彦さん(86)だ。
赤ちゃんと妊娠の死亡率が高かった昭和20年代に医師となり、仲間の医師や助産師らと死亡率改善に向けて心血を注いだ。
だが、産科医を取り巻く環境は悪化し、病気になったりミスから命を絶つ医師もいたという。死亡率の改善という努力の代償はあまりにも残酷すぎた。

24時間365日、常に母子二人の救急となりうる分娩に対応しているだけでも責任が重く心身に負担のかかる激務ですが、さらに過酷な状況に追い込まれたのがちょうど10年ほど前のことでした。


<産科崩壊という言葉が生まれた時代>


高知県産婦人科医会の「日本と高知県の周産期医療の過去」(平成22)年に当時の状況が書かれています。
高知県だけでなく、全国同じような状況です。

開業産科医の高齢化で徐々に分娩取扱い施設が減少しつつある将にその時期に、厚労省医政局看護課長による「看護師による内診禁止」の通知が平成14・16年に出され、助産師絶対数不足の状況下でそれを根拠にした保助看法違反による警察介入により、殆どの産科施設では分娩数の縮小あるいは撤退を余儀なくされた。

加えて2004年度からの新臨床研修制度導入と平成18年2月の県立大野病院産婦人科医の医師法21条違反と業務上過失致死障害罪による逮捕などの影響を受け、一人医長又は産婦人科医の少ない大学病院が一斉に分娩から撤退し、結果として、分娩施設の激減による「お産難民」が発生し、国是とする少子化対策に暗い影を落とす事態となった。

10年前。
ちょうど私自身が、総合病院から産科診療所に移った頃でした。


総合病院ではどうしても産科以外の業務が多かったり、年齢的にも管理的な業務が多くなる時期に、もっとお母さん赤ちゃんの側でずっと働きたいと思い、診療所へ移る決心をしたのでした。


それまで大都市近郊であれば、助産師という資格があれば自分が希望する勤務場所はいくらでもある時代でした。
ところがちょうど産科診療所に勤め始めた頃から、自分の勤務先もいつなくなるかわからないという時代に突入したのでした。


日本の周産期医療はどうなるのだろう。
日増しにその不安が大きくなりました。



総合病院で診療所で、あるいは助産所で、産みたいと思える場所を選択できて、しかもいつも産科救急に対応できるようになってきた日本の周産期医療のシステムは、本当はようやく手に入れられた理想的なものだったのかもしれない。
それは産科医をはじめとして関係者の激務によって支えられていたものなのですが。


そのすばらしさに気づかないうちに、「あの時代は良かったね」ということになリ始めたように感じました。


あれから10年。
産科医の高齢化、特に開業産科医の先生方の引退が加速する時代に入りました。


しばらく、産科診療所ではたらく一助産師としての想いを書いていこうと思います。