境界線のあれこれ 24  <一次施設の診療所と助産所>

昨日の記事で産科施設の一次医療機関は何か、次のような説明文を紹介しました。

正常分娩を中心とするローリスクの妊産婦・新生児への対応を行う。
小規模病院や有床、無床診療所と助産所が含まれる。
(「助産師基礎教育テキスト3 『周産期における医療の質と安全』」日本看護協会出版会、2009年)

たしかに助産所も医療法で規定された医療施設に分類されます。

第2条 この法律において、「助産所」とは、助産師が公衆又は特定多数人のためその業務(病院又は診療所において行うものを除く。)を行う場所をいう。
2 助産所は、妊婦、産婦又はじょく婦10人以上の入所施設を有してはならない。
 

助産師が9床までの入院施設を持つ分娩施設を開設することを認めています。


この医療法は1948(昭和23)年に定められたものです。
まだ1次施設という言葉もない時代でしたから、出産においては診療所と助産所の境界線もあいまいなものだったのかもしれません。


現代では、1次施設として診療所と助産所が並べられていますが、そこには明確な境界線があります。
医師がいるか、いないかという明確な境界線です。


それは出産介助をする側にとっても致命線ともいえるものであるのに、社会はその恩恵を受けてきたことにあまりにも無頓着すぎたのかもしれません。
現代の助産師も含めて。


<「出産の集約化」が必要だった時代>


1948(昭和23)年というのはどういう時代だったのでしょうか。
「出産の医療化と分娩室」に書いたように、この当時は「出産の医療化」というのは病院で産むことではなく、無資格のトリアゲババや家族だけでお産をする無介助分娩から医療資格を有する助産婦の分娩へという時代がまだ続いていました。


出産に医師が立ち会うのは、生死をわけるような救急時と健康保険に入っていたり経済的に医療費の負担が可能な人に限られていました。


現代からは考えられない遠い昔のように思えるかもしれませんが、50代の私が生まれる頃までこうしたことが日本であったわけです。


有資格者の助産婦は限られていますから、自宅へ赴いて分娩介助をするのでは対応しきれません。
産婦さんを集めて分娩介助をする「出産の集約化」の必要性がでてきた時代でした。


医師の往診を頼むこともかなわない人が大半の時代に助産婦が応急処置をする必要がありますし、当時の医学の標準に応じた分娩介助に必要な物品を備えるためには「医療設備の集約化」が必要でした。
分娩のたびに自宅へそれらの物品を持っていくことは大変ですから。


そういう時代に、助産婦にも医療法で入院施設を持つことが許されたのでした。


<出産に医師が立ち会うことが夢ではなくなった時代>


本格的に入院施設を持つ助産所ができ始めたのが1950年代ですが、その助産所も1970年代に全分娩の10%程度を取り扱った時期をピークに減少していったことはこちらの記事で紹介しました。


1960年代ごろからは経済的に困窮していたり充分に休養をとれない母親の多い農山漁村などで、助産婦が母子健康センターを設立していったことを上記の記事で紹介しました。

自宅分娩以上の安全を求め昭和30年代半ばから相次いで助産婦による母子健康センターを開設。自宅から施設へと分娩が移った。

この当時は、有床の助産所や母子健康センター、つまり助産婦だけの施設が出産の1次施設としての機能を担っていたといえます。


ところがその後10年ほどで、急速に出産の1次施設は医師のいる診療所へと変化しました。

より高い安全性を求め、診療所や病院など医師がいるところで出産するようになり、10年から15年ほどでセンターの助産業務は休止される。

助産所も同様に減少していきました。


「出産の集約化」「医療設備の集約化」の時代に助産婦が出産の1次施設の責任を担っていた時代から、医師のいる施設での出産へと急速に変化しました。


もはや、助産師だけの助産所は1次施設以前の施設になったと、私個人は思っています


医師がいるかいないか、そこには明確な境界線を引くことができます。


ただ、そういう時代の変化と自分の役割が変化したことを受け止めるには、気持ちの整理をする時間が必要なのかもしれません。
「自然なお産」「助産婦による温かいお産」を守りたいと強く思う流れには、助産師側のこういう心理的な背景が大きく働いたように思えるのです。


医学知識も医師とは比較にならないレベルであり、限られた医療行為しか許されていない助産師だけの分娩介助と、医師が立ち会う分娩とどちらが安全か。


そんな自明なことも認められないほど、時代の大きな変化の中で自分の立場を守ろうとしてきたのかもしれません。





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