境界線のあれこれ 28 <1950年代から1960年代、看護の大転換の時期>

しばらく産科診療所の話題を離れていますが、実は、この1950年代から60年代頃の看護の変化がその後の産科診療所のありかたにも大きく影響をあたえたのではないかと思うので、しばらくその頃の医療や看護の話題が続くかもしれません。


昨日の記事で、東南アジアのいわゆる開発途上国の病院の様子を少し書きました。


あ、やはり1950年代の日本の病院は似ていたのだと思う記事や写真を見つけました。


福井県看護連盟の「連盟創設の頃の看護の状況」という座談会記事で、1ページ目の中頃に1949(昭和24)年頃の病院の様子が写真とともに紹介されています。

患者さんは布団やコンロを持ち込んで入院。
「入院となると、本人の寝具やご家族の寝具も持ち込まれて、大変だったと思います。自炊所も洗面所も共同で、本当に今思うとお粗末なところでした。」

今では当たり前の病院の給食もなく、当時は患者自身あるいは家族が自炊していたところがあったことがわかります。



<完全看護、そして基準看護の時代へ>


そして完全看護と基準看護という言葉が生まれた1950年代の変化がわかります。
(実際のインタビュー記事とは発言者の順序が逆にしてあります)

久島さん
25年には”完全看護”が制定され、その頃から「付き添いは廃止しなさい」と言われ始めましたよね。
当時の日赤では、1つの病棟が40床ほどで、看護師は10名ぐらいしかいませんでした。

わずか10名ぐらいの看護師で、それまで家族の手も入れて看護していた病院の看護が可能だったのでしょうか?


看護の大転換の時期とも言える当時、1955(昭和30)年頃の様子がインタビュー記事の冒頭で書かれています。

青木さん

はい、あの病院は100床ぐらいの個人病院でした、当時は看護部もありませんし、勤務表も簡単なものでした。当直制で、当直したあとは半日休み、その代わり深夜勤務でも睡眠をとっている時が多くて、患者さんからの訴えがあれば起きる、という状況でした。


基準看護もとっていませんでしたから、家族介護が多かったですね。家族が介護できない時は家政婦協会から家政婦さんが入っていました。ナースステーションもなくて、診察室の片隅を借りていたくらいです。

次々と病院や診療所が増設されていく中で看護婦不足自体が問題であったのに、さらにそれまで家族が担っていた入院患者の身の回りの世話まで看護婦が対応していく方向へ大きく変化した時代だったといえるでしょう。


こちらの記事の<1980年代までの付き添い婦さんと派出看護婦>に書いたように、私が看護師になった1980年代でもまだまだ多くの病院は家族が付き添い婦を雇うことを黙認し、医療の高度化に伴って看護の行き渡らない部分を補っていたのでした。


<1950年代頃の医療と完全看護>



上記で紹介した青木氏の「深夜勤務でも睡眠をとっている時が多くて、患者さんからの訴えがあれば起きる、という状況でした」という1950年代の看護に驚く方も多いかもしれません。


これは家族あるいは付き添い婦が側にいるから現在のようにナースコールで呼ばれるような状況が少ないということとともに、当時の医療処置が現在と比べても少なかったという背景があるからではないかと思います。


現在当たり前のように実施されている昼夜を問わない持続点滴も当時はなかったことでしょうし、夜間の医療処置自体が少なかったのだと推測できます。
1980年代の人工呼吸器その他の医療機器が普及する以前であれば急変時の対応も現代から見れば限られたごくわずかのことしかできなかったことでしょう。


それでも、連日のような当直や夜勤をしなければならない女性の仕事は、当時であれば看護婦だけであったことでしょう。
ジェンダーとメディア・ブログ」というブログの「看護師の給与が上がったのはどうしてか」という記事に、以下のような話が書かれていました。

一つは、女性たちの現場での実力闘争である。かつて1960年代までは看護師は、つきに夜勤が頻繁に回ってきて、しかも夜勤を何十回こなしても、月100円ぽっきりしかつかなかった。

こちらのサイトの物価で見ると、1950年の新聞月ぎめ料金が1ヶ月53円から70円だったようです。
現代の感覚では、夜勤を何回やっても1ヶ月数千円しか手当てがつかなかった、という感じでしょうか。
本当に過酷な時代だったと思います。


そんな時代だったのに、そのその次のページでは、青木氏が当時の気持ちを以下のように語っています。

サービスに関しては、患者さんに対して「何とかして助けよう」という気持ちは強かったですね。
以前は身の回りのことは家族の方がお世話していました。看護も、家族と看護婦で行っていました。サービスという言葉自体考えず、病める方がいたら、家族、医師、看護師、誰もが手を差し伸べていた時代でしたね。

前回の記事で、「看護の質は経済状況に規定されるのではないか」と書きました。


日本も半世紀前はまだ医療保険も行き渡らず、貧困の格差が著しい時代でした。

でも、私が東南アジアのある国で経験したような患者さんや家族を鼻であしらうような看護職ではなく、上記のような気持ちが臨床に育ったのはどうしてなのだろうと考えています。


そう、私が看護教育を受けた頃も、日本の看護の世界は「ベッドサイドのケア」という言葉が好きな人たちにあふれていました。


いえ、決して「日本はすばらしい」という優越感を書きたいのではないのです。
何か、そこには条件やきっかけがあったのだろうと思います。





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