看護基礎教育の大学化 12 <看護職にとって「高い人間性」「広い視野」とは>

日本の看護教育の大学化の必要性についてすっきりと理由が見えてこないのは、「大学化」が目的になってしまい、社会や医療の変化に合わせた看護の方向性を大学化の理由にむりやりこじつけているように見えてしまうのです。


また、臨床実践、研究そして教育の3つの分野のレベルアップを、一気に4年制の大学化で実現させようと盛り込みすぎではないかと思います。


看護実践を理論化、体系化していくための研究者を育てることは大事ですし、それは大学教育の中で育てる必要があるでしょう。


研究者を育てるための教育者、あるいは看護の臨床家を育てるための教育者を育てることも、大学という場がふさわしいこともあるでしょう。


でも臨床で働く看護職にはどのような教育が必要なのか。


看護教育そのものの時間を減らしてまで大学化する、その目的でしばしば目にする「質の高い看護」とは何を指すのか。


1990年代からの看護教育の大学化に向けてのいくつかの資料を読んでも、臨床ではたらく看護師を育てるのになぜ大学化が必要なのかに納得の行く理由も、その先にある医療現場はどのようなものなのかというイメージについても、何かすっきりと見えてきません。


<「広い視野」「高い人間性」は専門学校では得られないのか>


看護教育の大学化が本格的に始った1991年の「なぜ4年制大学が必要なのか」というシンポジウムのまとめが公開されていました。


その中で看護教育が大学で行われる必要がある理由のひとつとして、次のように書かれています。

(前略)又看護は対象との全人格的なかかわりの中で展開される仕事ですから、専門者の人間としての成熟が問われます。
 このような役割を担う看護専門者になる人たちへの教育には一般教養の科目が豊かに提供され、自由に選択することができ、十分な時間をかけて広い視野で学ぶことが保証されるべきです。

広い視野での豊かな教養は学ぶ者に自我の発見を可能にし、高い人間性を育みます。このようにして育まれた余裕ある、独立した人格をもって看護者が対象に向かい合う時、看護が望む真の共生や共感が生まれると考えます。特に看護倫理に関しては専門者の人格が直接関与することもあって、豊かな教養は看護専門者に欠かせません。

このような文の細かい部分への批判は置いて、全体の文脈としてはそれまでの看護専門学校での教育は「詰め込みすぎ」であり、教養を深める機会がないというのが大学化を進める理由のひとつとしてよく目にするものです。


看護基礎教育を600時間も減らして一般教養に当てることで、本当に「高い人間性」や「広い視野」は得られるのでしょうか。


専門学校では本当に「高い人間性」や「広い視野」を持った看護職を育てられなかったのでしょうか?


それ以前に、看護にとって「高い人間性」とか「広い視野」とは何なのでしょうか?


<自分の未熟さを知ることができる>


「誰もが新人から成長する」で、口腔ガン末期のSさんとのことを書きました。
私が看護師として働き始めた新卒のときに、「自分の未熟さを患者さんに許されて仕事をしている」ことを心に留めるきっかけになったSさんでした。


新卒といっても、当時の看護教育では現在の学生よりも1.5倍ぐらい実習時間が多いカリキュラムで卒業しました。
3年生の後期実習ぐらいになると、患者さんの基本的なケアも一人で任されるぐらい実践力を育てることを目的としたカリキュラムでした。


それは机上の学習ではなく、実際に患者さんやご家族に責任を持って接することで初めて知識や技術が身につくからです。


いえ、昔が良かったということを書くつもりではありません。現在は患者さんの安全を考えて学生には技術的な実習が制限されたのも、時代の要請なので仕方がないと思います。


ただ、頭の中でどんなによい看護計画を考えても、目の前の患者さんには受け入れてもらえなかったり、必要がなかったり、手も足も出せない自分との葛藤を感じるのが臨床実習でした。


3年生の実習の最後の時期ぐらいになると患者さんの急変時にも学生が手伝う機会を与えられるほど、実習先のスタッフの一員として認められるほどの自信をつけて働きはじめました。
それでもさらに臨床実践というのは、知識や頭の中の看護計画や気持ちではどうにもならないのです。


その葛藤こそが、多様な状況の患者さんを看護するための広い視野につながるのではないかと思います。


そして自分の未熟さを認識することで、相手への、あるいはその人生への敬意を持つことができるのではないでしょうか。


それが「高い人間性」、そういうものがあるとすればですが、それに必要ではないかと思うのです。





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