看護基礎教育の大学化 13 <「質の高い看護」とケアの独善性>

いつ頃からでしょうか、看護の世界で「看護観」という言葉が広がったのは。


「あなたの看護観は何?」と問われて、どれくらいの看護学生や新人看護師が追い詰められて涙していることでしょうか。


臨床で30年以上働いてきた私だって言葉にならないようなものを、学生や臨床に出たばかりの人たちに問うこと自体に、私は看護の中の独善性を感じて少々気が引けてしまいます。


1980年代初頭に看護師になった私は、あまり「看護観」を問われた記憶がないし、どのような定義なのかわかりません。ましてや、看護職以外の方になんと説明してよいかよくわからないのですが、ニュアンスがわかる文章がありました。


2013年に終刊になった「季刊 綜合看護」という雑誌の紹介文です。

看護は看護者ひとりひとりの「看護観」の表現であり、優れた看護実践は「優れた看護観」を欠いてはあり得ません。また「看護の心」とは正しく確とした「看護論」とそれにしっかりと根ざした豊かな「看護観」そしてさらにそれらに導かれた「看護的な人間観」それらを根とし茎とし薬としてはじめて見事に看護者の上に開く花であるといえるでしょう。さらに、看護実践は正しい看護論に導かれた科学的な「人間科学と生活科学」の幅広い知識を必要としています。

きっと看護学生や新人看護師が読むと、言葉に圧倒されてわけがわからいけれど正しいことが書いてあるようにみえることでしょうね。



私には、冒頭の「看護師お悩み相談室」に質問を書いた方の、「とりあえず透析操作の手順がきちんと安全にできるようになりたいっていうだけです」という正直な思いのほうが、よほど科学的な思考だと思うし、患者さんが求める看護だと思うのですが。


なぜかというと、「ベナーの看護論」にあるように、今自分の技術や知識がどの段階であるかを見極められているのですから、十分に「科学的な思考」であると言えるでしょう。


<「看護論」は看護の質を高めるのか?>


この看護観とともに、1980年代から多くの看護理論が看護教育に取り入れられたと記憶しています。


1980年代終り頃に助産婦学校を受験するための勉強で一番つまづいたのが、私が看護学校を卒業したあとのわずか数年で広がった、名前も聞いたことがない数々の海外の看護論を覚えなければいけないことでした。


たしかに臨床実践を言語化したものなのですが、各論であってその総論がない、つまりその言語化するためのもっと法則的なものが何かを知りたいのになんだか表層的な理論だなと感じました。


私の看護学生時代に、ひとつだけ看護論を学びました。
薄井担子(ひろこ)氏の「科学的看護論」(医学書院、初版1974年)です。


学生時代の本は処分していましたし久しく忘れていたお名前だったのですが、助産師とホメオパシーについて考えているうちに無性に読み返したくなったのでした。
ちゃんと書店には今もありました。


そのうちにブログで紹介したいと考えていたのですが、今日はその中の至言とも言える部分のひとつを紹介します。

精神看護を説いたり、心を強調したりすればすぐれた看護技術が身につくというような単純な問題ではない。その”心”と”技術”との連関をはっきりさせることこそが必要なのであり、そのように問題を短絡させてしまっては、本質的には自己満足以外の解決策を見出すことはできないであろう。(p.59)

看護にしても介護や育児にしても、ケアというのは「〜してあげたい」という気持ちが大きい分、自分に酔い独善性に走りやすい本質をついたものだと思います。


30年前に読み流していた部分が、ようやく自分の身になりました。


この薄井担子氏の「科学的看護論」という本質にせまった理論があるのに、日本の看護教育の「看護理論」には含まれていない。
何か方向を見誤っているのではないかと不安になるのです。



何度か紹介したtadano--ry氏の言葉を再掲します。

順番がおかしいのだと思います。学校はまず知識と技術を教える場なのに、その前に哲学や思想を教え込もうとするからおかしなことになります。
(中略)
価値観、倫理観や哲学思想というものは、仕事を含む日々の生活から勝ち取るものであり、教え込むものではないでしょう。もし教えるなら「こういう考え方もある」という知識だけで十分で、価値判断は個人にさせればいいのです。

大学での看護教育は幅広い視野や人間性を養い「質の高いケア」ができる人を育てると謳っていますが、そういう信念がむしろ臨床実践の能力を育てるのを妨げることもあるのではないかと思います。






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