行間を読む 10 <「広い視野」とは何か・・・全体をとらえる>

看護基礎教育の大学化の流れのなかで、よく目にする「広い視野」で学ぶという言葉についてもう少し考えてみようと思います。


たとえば、大学化の流れが一気に進み出した1991年に開かれたシンポジウムの記録の「なぜ四年制大学が必要なのか」の最初のページにも以下のような部分があります。

このような役割を担う看護専門者になる人たちへの教育には一般教養の科目が豊かに提供され、自由に選択することができ、十分な時間をかけて広い視野で学ぶことが保証されるべきです。

たしかに、看護専門学校では多少一般教養的な科目もありましたが、朝から晩まで医療・看護に関する授業のみという日が続きます。


また全寮制のところも多かったので、教員から「あなたたちは電気・水道代も知らないし生活というものを知らなさ過ぎることを自覚しないと、患者さんやその家族のことを本当に理解することはできません」と、世間知らずにならないように言われたことを思い出します。


そういう意味では一般教養を学ぶことも、世間知らずにならず「広い視野」で看護を考える人が育つこともあるかもしれません。


でも最近は、もっと違う意味の「広い視野」があるのではないかと思うようになりました。


<全体の中のその事象が持つ意味>


そのケアが良かったのか悪かったのか、看護ケアというのは評価が主観的なもので直接返ってくることが多いものです。


たとえば「そのケアは効果があったか」を問う看護研究でも、統計処理などをして一見客観的に見えるようでも、データーは「おおいにそう思う」「そう思う」「どちらでもない」「そう思わない」などの主観的評価を使わざるを得ない限界があります。


そして看護ケアというのは何年かして初めて「それで良かった」と評価できる分野もあれば、多くのものは直接的な影響はよくわからないものではないかと思います。
「自分がしたことが相手にとってよかったかどうかわからない」というあいまいさに忍耐強さが試されるという感じでしょうか。


まして、患者さんや家族から直接クレームに近い評価があれば、動揺しない医療従事者は少ないことでしょう。


自然なお産に大きく動きかけた1990年代頃からを思い返しても、新聞・書籍あるいはネット上で「病院のお産はいかに冷たいか」と書かれれば、自分たちのしてきたことを全て否定され、反省しなければいけないような気持ちになりやすいものです。


病院のお産に不満足だった方がいらっしゃることも事実でしょう。
でも、「ここで産んで良かった」「また次の機会もここを選びます」と言ってくださる方々がたくさん目の前にいても、今までしてきたケアは不十分だったのではないかと心が落ち着かなくなりやすいものです。


100人のうち一人が不満足ということを表現しただけで、まるでオセロの盤が白から黒へ次々とひっくり返されていくような不安と焦りを看護職は感じやすいのではないでしょうか。


なぜその人は「病院のお産に不満を持ったのか」。
そして同じような思いをしている人は全体でどれくらいいるのか。


たまたまスタッフの力量の問題があったのかもしれないし、その施設の問題もあったのかもしれない。
日本の周産期医療従事者全体に同じような傾向や問題点があって、改善の余地があるのかもしれない。
その人自身も出産について知らないことが多かったこともひとつかもしれません。
あるいは社会の変化に伴って、医療モデルと社会モデルの受け止め方の違いが誤解を生んでいる部分もあるかもしれない。


ひとりひとりがユニークな存在でありさらに医療は一回性である、その再現できない個人の営みや社会の変化全体をどうとらえるのか。


そうした全体の中でその事象が持つ意味を考えることが、「広い視野」のひとつではないかと思えるのです。






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