境界線のあれこれ 44 <ユニークとユーモア>

生命の一回性という意味でのユニークさまぁ〜ずを思い出してしまうユーモア、なんの脈絡もなさそうなテーマですね。


「唯一の、かけがえのない私(あるいはあなた)」というユニークと、「ちっぽけな自分を笑い飛ばす」ユーモア、その間のどのあたりに気持ちのおとしどころを見つけるかが人生の葛藤なのかもしれないと最近考えています。


<唯一の、かけがえのない私の命>


私の半世紀ほどの人生で、この「唯一の、かけがえのない私」という言葉の意味するものが大きく変化したように感じます。
あくまでも私個人の感じ方ですが。


成人になった1980年代はじめ頃までは、「かけがえのない命」の指すものは戦争や原爆で亡くなった方たちのことであったり、あるいは1970年代の日本各地に広がった公害や大気汚染で苦しむ方たちのことがまず思い浮かびました。


小学生の頃に東名高速道路が全線開通したことをこちらの記事に書きましたが、当時、高速道路で工業地帯を通過する時の大気汚染は本当にひどいものでした。
工業地帯が近づくと空の色は怖ろしいほどよどんだ色になり、窓を閉めていても異臭が車の中に入ってきました。
駿河湾もヘドロで漁業にも被害が出ていました。
都内も排気ガスで、今と比較にならないほど空がいつもよどんでいました。



高度経済成長で国民の生活が豊かになるために大きな犠牲がありましたが、環境対策が徐々に進み、工業地帯にも青い空と海が戻りました。


生活レベルも上がり医療制度も整い、身の危険を及ぼすような公害や車の排気ガスへの対策も進んだ1980年代後半頃からでしょうか。
「自分がなんのために生きているのかわからない」
自分探しという言葉と共に、かけがえのない命は「あなたと私」から「私」へと大きく変化したように感じるのです。


<自分に自信を持つ>


自分はかけがえのない存在であるという想いは、さまざまな表現になります。


ある時には自尊心であったり、ある時には自己憐憫であったり、そして自己愛が強くなることもあると思います。


そのバランスはどこで変わるのだろうと考えたときに、「自分なんてちっぽけだよね、えへへ」と思えるかどうかなのかもしれないと、遅ればせながらこの年になってようやく見えてきたのでした。


「自分はちっぽけだよね」というのは相手(他者)のすばらしいところを認めることができて、でも「自分も捨てたもんじゃないな」という自信が持てる、とても安定した自己肯定感だと思います。


ユニークとユーモア、少し意識するだけで、こころをざわつかせることも少なくなるかもしれないと思うこの頃です。




「境界線のあれこれ」まとめはこちら