記憶についてのあれこれ 3 <手で記憶する>

記憶そのものは脳で行われているのですが、記憶を取り込む段階でさまざまな感覚器が働いています。


知識を記憶するのには目や耳で情報をとりこんでいますし、「あ、海のにおい」といった鼻で情報を取り込むこともあるでしょう。


日々接している新生児を見ていると、手でさまざまな情報を取り入れて経験を記憶しているのではないかと思えることがあります。
そんな新生児の手の動きの変化や成長に関しては、こちらこちらの記事に書きました。


<生後2〜3日、自分と他者の距離を記憶する>


その中でも生後2〜3日の間の、新生児の手の動きの変化には目を見張るものがあります。


出生数時間もたっていない新生児ですが、抱っこしているとどちらかの手を伸ばして抱っこしている人の顔に触れようとするかのようなしぐさがあります。
そして目的の物に触れると、安心したかのように手を下ろします。
「抱っこされている」ことと「抱っこしている人」を認識するためなのでしょうか。


また哺乳瓶での授乳を何回か体験すると、あの白い人工乳首はあまり新生児の目に見えないのだと思いますが、近づいてきただけで手で払いのけようとしたり、人工乳首の先を指で掴んでそれ以上口に入れさせないようなしぐさをし始めます。


あるいはお腹の動きを待っている時は、哺乳瓶での授乳でもわざと浅くくわえてくちゅくちゅしているようなのですが、そういう時は哺乳瓶を手で押さえるしぐさがあります。「それ以上、深く押し付けないでね」と調節しているかのようです。


胎内から別世界に飛び出して、ぼんやりとしか見えない世界に適応していくために、新生児の手というのは活発に情報を取り入れて自分と他者を記憶するための器官なのかもしれません。


<手で記憶する>


父が認知症になって間もない頃、1日に何度も散歩に出ていました。


20分ぐらいするときちんと家に戻ってきていましたし、「外は気持ちがいい」と楽しそうでしたので、父にすれば目的を持った散歩であって徘徊ではなかったのかもしれません。


ある時、一緒に出かけてみました。


近くの土手沿いを歩き、馬がいるところに行くのがお気に入りのコースだったようです。


帰り道に父がある行動をしていることに気づきました。
それは電信柱を両手でさわり、あるいは石垣を両手でさわり、家までの何箇所かを触りながら歩いていることでした。


おそらく帰り道を忘れていく不安の中で、なんとか記憶に残す方法を模索していたのではないかと私には見えました。


<握手をする>


ある時期から、帰ろうとする私に父は握手をするようになりました。


思春期以降、父とはかなり距離を置いていた私ですから、ましてやスキンシップのような握手に最初は戸惑いました。
温かい父の手に触れたとき、自分が予想もしない感情が溢れ、強く握り返したのでした。


それ以降、いつも帰り際の儀式として定着した握手です。


父も、そして私もその手に何かの記憶を留めようとしているのかもしれません。




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