記憶についてのあれこれ 4 <忘却の彼方へ>

こうしてブログを書くようになってから、突然、記憶の断片がたくさん蘇ってくるようになりました。
そして回想が始り、ひとつの記事ができあがっていきます。


どこに、こんなに記憶されていたのだろうと不思議な気分になります。


ある日、カチっとスイッチが入ったかのように、何かをきっかけに頭の片隅にあった記憶が戻ってくるのですから、本当に人の脳というのはどうなっているのでしょうか。


「忘却の彼方へ」という言葉があり、「すっかり忘れる」とか「記憶が失われる」「頭から消える」という意味のようです。


父との会話もおおよそは毎回の面会で同じ内容なのですが、時々、スイッチが入ったかのように今まで聞いたことがないエピソードが出てきます。


それは新たな父の一面を知る手がかりになるのでうれしくもあり、貴重なことなのですが、忘却の彼方のままでもいいと思うこともあります。



<「自分は実戦には行かなかった」>


父が暮らすグループホームの居室にあるわずかの荷物の中に、古い卒業アルバムがあります。



父は、日本軍のエリートを育てるための学校を卒業しました。
その時のアルバムです。


私が小学生の頃は、そういう父を誇りに思っていた反面、どこまで父は戦争に関わっていたのだろうと恐怖に近いものを感じていました。



ある時、おそるおそる聞いてみました。「お父さんは戦場で戦ったの?」と。
「学生だったから実戦には参加できなかった」という答えに安堵したのでした。
でも、学生で終戦を迎える頃には東南アジアのある国に送られていたという話は聞きました。


どういう状況だったのか、そこで父は何をしたのか。
父もそれ以上戦争に関しては何も答えてくれませんでしたし、私もひとつの問いを心の中にずっと封印してきました。
「お父さんは、戦場で相手の国の人を殺したのか」と。


今、そのアルバムを見ても父の表情は何も変わらず、そして何の感情も記憶も蘇ってこないようです。


<「どこの国だって同じことをしている」>


20代になって自分が東南アジアに暮らし、「あなたのお祖父さんやお父さんは第二次世界大戦のときに、どこで何をしていたのか」と直接問われたことで、私は父へ、というより父の世代に対して許せないような思いが強くなったのでした。


そして父へ、父の思想への対決が始りました。
まず「なぜあの戦争に反対しなかったのか」と、質問しました。


その時代の人にしかわからない葛藤、答えの出ないような葛藤に対してなんて不寛容なおろかな質問をして父を苦しめたのだろうと思います。
ただ、私はやはりどうしても東南アジアの、家族を日本軍に殺された方々の立場にしかたてませんでした。


日本軍が当時何をしたのか、本や資料を読み始めました。


そして、軍人として人を殺す戦争の残酷さだけではなく、慰安婦やレイプという女性を殺すに等しいことが行われていたことを知りました。
また20代から30代にかけて何度か行き来していた東南アジアで、慰安婦だった方に直接お話を伺う機会もありました。


そしてその慰安婦問題を問い続けていらっしゃった松井やより氏と偶然に知り合い、日本軍の戦争責任への関心を私は強めていきました。


ある日、また意を決して父に問いました。
慰安婦問題をどう思うか」と。


「あんなことは繰り返してはいけない」という答えを期待していたのに反して、父から返ってきたのは「そんなことはどこの国の軍隊でもやっている」という一言でした。


「では、あなたの娘がその慰安婦にされたらどう思うのか」
私は切り返しました。
父からは返事は返ってきませんでした。


この日を境に、私は完全に父に心を閉ざしました。
家に帰っても、ほとんど口をきくことはしませんでした。


子どもの頃から娘には甘い父親でしたから、この嵐のような私の感情に、ただただ父は黙って耐えていたのだと思います。


<戦争の記憶は忘却の彼方へ>



父にとってその軍人のエリート校に入ったことは誇りでした。
そして若い頃のことですから記憶に残っていてもおかしくはないのですが、そのアルバムを見ても何も思い出さないようです。



記憶になくなってしまったのか、それとももっとどこか奥深いところに封印していてスイッチが入らないようになっているのでしょうか。



スイッチが入ってしまえば、戦場でみたことやしたことが思い出されてしまうのかもしれません。
そして、娘に自分の人生を全否定された記憶が蘇ってきてしまうのかもしれません。


このまま忘却の彼方のままで、心穏やかに過ごしてもらえたらと祈っています。





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