看護基礎教育の大学化 19 <「看護診断」を受け入れてしまった看護学>

今から十数年前のことですが、厚労省の臨床指導者研修を受けたことがあります。病棟の中堅層を集めて、学生への指導者を育てるために2ヶ月間研修をうけるものです。


臨床実践の場を離れて、学生を教えるための系統的な知識を学ぶ機会は、助産師学校以来の集中してきく講義でとても充実感を感じました。


その中で今の学生はこんなことを教わっているのかと驚きつつ、「看護をそんな面倒な方法で教えたら、頭が混乱して臨床が嫌いになってしまうのではないか」と漠然とした不安を感じたことがありました。


それが「なんだ、これ?」と思わず駄じゃれが出てしまったNANDA(ナンダ、北米看護協会による看護診断基準)でした。


その当時、もやもやしていたこの看護診断に対する考えが、このブログを書くことで少しずつはっきりしてきました。


<達人級の看護過程の言語化が必要とされた背景>


2013年3月18日の記事に書いたように、このNANDAの看護診断というのは達人看護師の判断や行動を標準化しようとしたものではないかと思います。



なぜこのようなものが生み出されたか。
それはアメリカの看護婦の仕事は薬を渡すことが仕事であり、在院日数わずか2日程度の間に患者を把握して必要な看護を計画しなければいけない現実があるからではないでしょうか。


状況を分類した一覧表に沿って、その患者さんに合いそうな状況を拾い上げれば短時間で合理的に必要な看護からケアにかかるコストまで全てが網羅される。
それがアメリカの看護なのではないかと思います。


<行間のあいまいさがわかるのが達人>


NANDAの看護診断では、以前書いたようにわかりにくい表現という問題もあります。
「運動と活動を行う能力の喪失による影響」と言われても、はぁ?としか私には受け止められないのですが、むしろこういう簡略化した言葉のほうがわかりやすいということに、経験の標準化には大きな落とし穴があるといえるのかもしれません。


「週間医学界新聞」2013年1月28日の「ここが変わった!新しいNANDA-1看護診断」という記事の中に、新たに採択された看護診断の一覧があり、周産期看護に関係するものとして「母乳分泌不足」「新生児黄疸リスク状態」とあります。


この二つの簡略化された言葉を見ただけで、私には「そもそも母乳不足とはなにか」「なぜ新生児はあえて母乳を引き出さないような浅い吸いかたをするのか」「黄疸がやや強めの時期の新生児の母親はなぜ母乳が出にくい印象があるのか」など、これまでの記事にも書いてきたような、まだまだ自分の中でも答えの見えない仮説のようなものが次々とその行間から湧き出してきます。


一言で「母乳分泌不足」と表現してしまえば、それで思考停止してしまうのではないでしょうか。
電子カルテに「母乳分泌不足」と入力しておしまい。
あるいはそれ以外の表現が許されないとすれば、対象の多様性や不確実性からくる看護のダイナミックスの醍醐味のようなものもなくなってしまうように思います。


NANDAの看護診断は、わからないことやあいまいなことをそのままにする猶予もないくらい在院日数が短い社会だからこそ必要にされたものなのでしょう。


達人になるには経験や多くの葛藤から考える時間が必要です。
その段階を飛ばして、達人級の判断を教えれば「質の高い看護」になると考えているのでしょうか?


「ぱっと見ただけで患者さんの状況や必要なことが見える」、そんな達人級の看護師の行動や判断を標準化することよりも、まずはどのスタッフにも必要な看護手順を標準化することの必要性がわかっていない。


そういう人たちが看護学を教えているのではないかと思えるのです。
達人級の看護師の域に自らが到達する前に、臨床を離れてしまってはわからない境地かもしれません。






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