プレゼンター

競泳大会の表彰式では、表彰状や花束を渡すプレゼンターがいます。


過去の日本選手権や世界大会で活躍された元選手の方々がプレゼンターをされているようです。
昨日は、私が大好きだった中村礼子さんでした。
私が競泳に関心を持ち始めた2001年以降に活躍されていた選手であれば、泳ぎやさまざまな大会の場面、そしてその当時の自分の生活までもが次々と思い出されて懐かしくなります。


それとともに、20代前半の若さでオリンピックや世界水泳のメダリストという人生の絶頂期のような時間を経験したあと、どのように「普通」の生活に戻っていかれるのだろうと気になっているので、元気そうな姿を見るとほっとするのです。


今年の一月には、ショックなニュースがありました。


私が競泳大会を見始めたきっかけは、2001年福岡で開かれた世界水泳イアン・ソープ選手の泳ぎを見たことでした。


ダイナミックでいながら水の抵抗が少ないように見える泳ぎに魅せられました。
残念ながら、まだ当時は日本でのワールドカップ開催はなかったので、間近にイアン・ソープ選手の泳ぎを見ることはかないませんでしたが。


そのイアン・ソープ氏が、うつ病アルコール中毒で入院治療をしていると報道されました。


現在31歳ですから、10代終わり頃からの数年で金メダルと世界記録で注目され続けた時期があり、その後はその栄光の時期から次にどのように生きていくのかもがきつづけたのではないかと思います。


今でこそ南アフリカスクーマン選手のように過去の栄光に囚われずにあらたな種目にチャレンジし続ける選手や、日本でも北島康介選手や松田丈志選手のように泳ぎ続ける選手が増えました。


それでも、感動とかメダルとか記録への世の中の期待が、こうした競泳のようなプロともアマチュアともいえない種目の選手の大事な10代から20代という時間を、なにか「消費」してしまっているのではないかと思えてならないのです。


<presence=「ここにいます」>


ところでpresenterはpresentから変化した言葉ですが、presentの名詞形がpresenceで「存在」という意味ですね。


これもまた犬養道子氏のどの本なのか忘れましたが、英語圏の国では授業の出欠をとる時の返事が「presence」だということが書かれていました。


日本では「はい」と答えてそれ以上の意味はないのですが、「私はここに存在しています」という深い意味が込められていることに、個々の人間の存在への考え方の違いを見たような気がしました。


私がキリスト教の教会と関わりを持つようになってから、独特の言い回しだと感じたのが「私を覚えていてください」というものでした。
忘れられた女になりなくないといったニュアンスの「私を忘れないで」という意味ではなく、神に対して自分の存在を意識するための表現なのでしょうか。


常に「在る者(Be)」としての神に対し、人間は寿命が限られている。
でも存在している私がいる。


返事ひとつをとっても、人間を観察し続けてきたことによる意味をもった国々があることに、20代の私はとても驚いたのでした。


<過去の栄光から新たな存在へ>


本当ならまだまだ社会で生きるための下積みのような時期である20歳前後に、世の中の注目や期待を集めるこうしたスポーツ選手が、これからの長い人生をどう働きどう生きるかということに関して、観客の私にも責任があるのではないかと思うこの頃です。


「美人スイマー」や「亡き家族の思いが支え」とか、あるいはメダルのことばかりの表面的な演出で感動や喝采を求めるような風潮には異を唱えたいと思います。


思うような結果が出なくて苦しんだその時期も含めて、そこにその選手が存在したことにこちらも本当に勇気づけられてきました。
うつ病アルコール中毒で人生のどん底にいるイアン・ソープ氏ですが、彼のかつての泳ぎに魅せられて競泳を観戦するようになってから、どれだけ私自身も精神的な強さをさまざまな選手から学んだことでしょうか。


気持ちを切り替えることであったり、気負わないことであったり。
泳ぐための精神の強さというのは、「強い」の一言では表現できないほど柔軟性のあるものだと思います。
それがどれだけ40代から50代への私の人生を豊かにしてくれたことでしょうか。


イアン・ソープ氏のように過去の栄光から新たな存在への変化にもがき苦しんでいる選手たちを支えるために、私には何ができるのでしょうか。




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