行間を読む 18 <老人の知恵と経験とはなにか>

1980年代、私が20代の頃に、「ひとりの老人がなくなることは図書館がひとつなくなるようなもの」という諺でイメージした「老人」というのは、当時関心を持ち始めていた旧約聖書に出てくるような預言者や、少数民族などの社会でなにか困難があると様々な智恵や経験からアドバイスをする長老のような存在でした。


wikipediwの預言者にある、「神の言葉を伝えて人々を正しい方向へ導く者」のようなイメージです。
「神の言葉」は「歴史から学んだ経験」と置き換えても良いのかもしれません。


今、自分が半世紀を生きて、周囲にそういう「老人」がいるかといえばいません(笑)。


おそらくその理由のひとつは、私個人を生きることができ、自己決定ができる時代になったからではないかと思います。


<「聖職」的な存在がなくなる>


パターナリズムという言葉を耳にするようになったのは、やはり1990年代頃からの「根拠に基づく医療」の時代に入ってからでした。


リンク先の「パターナリズムの典型例」にある「専門家と素人」の例がそれです。


そして私自身は1980年代から、牧師や神父という聖職者と呼ばれていた人たちとの関係が増えていきました。


最初は私よりずいぶんと年齢が上の方たちでしたから、無条件に尊敬の念を抱いていました。
今は、こちらの記事で「周囲の『医師』の方々の多くが年下の年代」になったと書いたように、牧師や神父もまた私と同年代か年下の人たちが増えました。


もちろん、年下であってもその専門的な知識や経験には尊敬の念を抱いています。


ただ、一方でそれぞれの年代の限界のようなものも見えてきましたから、無条件に頼ったり従うという姿勢はなくなりました。
「カリスマ」とか「神の手」のようなもてはやされ方が陳腐に見えるほど、人間の限界も見えてきました。


やはり、自分で答えを出すしかないとでもいうのでしょうか。


むしろ、自分の持つ力以上に大きく見せようとし権威づけることに注意することが、図書館役としての老人の仕事なのかもしれません。







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