思い込みと妄想 2 <代替療法と妄想>

代替療法とはなにかについては、こちらの記事から5回ほど書きました。


百花繚乱の代替療法ですが、「それをしたら気持ちが良かった」に関しては問題にしていません。
それを越えて、「○○に効果があった」と治療の領域に踏み込んだものについて考えています。


また医学でもまだまだ人の病気や不調に関してわからないことは山ほどありますから、たまたま「△△をしたら調子が良かった」という個人的な体験の事実を否定する必要もないと思っています。
もしそれが思い込みであれば、やんわりと伝えてあげるくらいでよいかもしれません。


ただ、そこから理論を勝手に作り上げていき、人に勧める、あるいはそれで経済的な利益を得ることについては、社会にさまざまな問題を引き起こす可能性があります。


<妄想とは>


妄想という言葉は、30年前の看護学生時代に精神科の専門用語として学びました。
ですから、今でも日常ではこの言葉を使うことには慎重です。


ただ、最近wikipedia妄想の「関連語句」にあるように、「想像の域を出ない主観的な決め付けのこと、しばしばインターネット上で多用される」とあるように、日常的な言葉になりつつあります。

非合理的かつ訂正不能な思い込みのこと。妄想を持った本人には、その考え方が妄想であるとは認識しない(むしろ病識がない)場合が多い。

精神医学用語であり、根拠が薄弱であるにもかかわらず、確信が異常に強固であるということや、経験・検証・説得によって訂正不能であるということ。内容が非現実的であることが特徴とされている。
日常的な会話でも用いられることもあるが、そのときはいかがわしい考えや空想を表し、必ずしも病的な意味合いを含むわけではなく、軽い意味合いで使われている。

いいかえれば、ちょっとした思いつきが思い込みになり、荒唐無稽な話が現実味を持って、その考えを支配してしまうという感じでしょうか。


その個人の妄想だけならまだ被害は少ないのですが、「え、なぜこんな話を信じているの?」というものを集団で信じてしまうと、なかなか引き戻すのは難しいようです。


<どこにでも妄想の「種」は落ちている>


ここ数年ほど代替療法のたくさんのありえない話、妄想、について考えてきたので、なんだか自分はそんなありえない話には引っかからないぞと思いたくなるのですが、それも根拠のない自信にすぎないと思うこの頃です。



前回のパソコンのトラブルにしても、あるいは原発事故などのように社会に大きな不安をもたらす状況でも、自分の知識というのはたかが知れています。


付け焼刃の知識では対応できないほどの専門分野に支えられた社会では、いつでもわからない、知らないが故の思い込みに取り込まれていく可能性があります。


そして安易に人に「あれは毒だよ」あるいは反対に「それは効果があるよ」と伝えてしまう可能性もあります。


その人物を実際に知っている周囲の人が「あんなことを言って」とその思い込みが広がることを阻止できていた時代から、ネットで瞬時に「すごいことを教えてくれる人」と崇める人が集まってしまう時代になりました。


自分自身が妄想の広がりの被害者にも加害者にもなりうることを心しておくことが大事だとつくづく思います。





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