数を数えるな

私は助産師になって二十数年間のうち1年間だけはぷー太郎で海外に飛び出してしまいましたが(「自分探し」でしたね、今考えると。自分の暗黒史がまたひとつ・・・)、それ以外の時期はお産からは離れずにいるので現代の助産師としてはまぁそこそこの分娩介助経験数にはいるのではないかと思います。



でもふだんは自分の分娩介助数は聞かれても適当に言っておきますし、自ら語ることはないです。


「○○人取り上げました」という助産師の表現を見ると、なんだかいたたまれないような居心地の悪さをかんじるのです。


ひとつは「取り上げる」という言葉への違和感なのですが、その語源のようなものについてはこちらで紹介しました。
この語源とは別に、「お産に立ち会う」あるいは「立ち合わせてもらう」という方が私の感覚にはあっています。


もうひとつは、私の心のどこかに「数を数えるな」という声が聞こえてくるのです。


旧約聖書の「サムエル記」>



30代から40代にかけて「聖書(新共同訳)」(日本聖書協会)を読んでいました。
毎日、旧約聖書新約聖書それぞれを1章ぐらいずつ読み、最後まで読み終わるとまた初めから読み始めるというように。


最近は、ちょっと目がしょぼしょぼするので遠ざかっていますが(笑)。



あまり自己流の解釈にならないように、一応テキストも参考にしながら読んでいますが、聖書と言うのは人間が陥りやすい思考や行動とその一生を描いた壮大なドラマなのかもしれないと思って読んでいます。


その中で、「サムエル記」のダビデの話の中に「数を数える」こととして印象に残った箇所が2つあります。


<「ダビデに対するサウルの敵意」>


「サムエル記上」18章に、サウルの命令によって出撃するたびに成功を収めるダビデに、サウルが嫉妬する場面が書かれています。

 皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出てきて、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三弦琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。女たちは楽を奏し、歌い交わした。
「サウルは千を討ち
ダビデは万を討った。」
 サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか。」この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。
 次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取り付かれた状態に陥れた。

この日以降、何度もサウルはダビデを殺そうとします。


ただの数字に人間の「気持ち」が入った時に、ねたみが殺意にまでもなる。
心しなければと記憶に残ったのでした。


<「ダビデの人口調査」>


もうひとつの箇所は「サムエル記下」の24章で、イスラエルの王になったダビデが人口調査をした話です。

主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた

一見、神の命令によってダビデが人口調査を始めたように読めます。


ところが「誘われた」には、全く反対の意味があるようです。
旧約聖書 略解」(日本基督教団出版局、2001年)では、以下のように説明されています。

「<人口を数え>ること自体が問題にされているのであって、歴代誌の並行箇所のようにそれがヤハウェに<誘われた>ものではなく、<サタン>の誘惑とした方が理解しやすい。(p.380)

ヤハウェとは主、神のことです。
悪魔の誘いにのって人口調査をしたダビデは、その後激しく後悔します。

民を数えたことはダビデの心に呵責となった。ダビデは主に言った。「私は重い罪を犯しました。主よ、どうか僕(しもべ)の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」


現代の「人口調査」の意味ではなく、勢力を広げ権威や権力を持つ体勢の拡大を望み数えてしまうこと、それを戒めているのだろうと心に残ったのでした。


「数は数えるな」は案外使える教訓ではないかと思います。




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