記憶についてのあれこれ 26 <「引きずらない」>

「引きずらない」
これは先日、父の面会に行ったときに父の口から出て来た言葉です。


いつも通り公園のベンチに腰掛けてしばらく噴水を眺め、それからコンビニのソフトクリームを食べに行きました。
父の兄弟姉妹の話そして座禅の話と、一見、毎回同じような内容の繰り返しのようでいて新しい言葉が出てきます。


今回は「座禅の時には何を考えているのか。あるいは何も考えないようにしているのか」という私の質問から話が始まりました。


「考えているわけでもない。考えないように何かに集中しているわけでもない」
またまた禅問答のようです。


「人は不安だとなんとかしようとあれこれと他の人に話して、解決のための相談をしたような気持ちになりやすい。でもそれでは解決にならないことが多い。心を落ち着かせて考えることと、引きずられないことが大事。」


そういえば私の記憶の中にある父の姿というのは、家庭の中では本当に穏やかでした。


兄弟に対しては時に厳しく注意することはありましたが、決して感情をぶつけるものではなかったと子ども心に理解できました。
責任の大きい仕事に就いた時も、さぞかし苛々することもあったのではないかと思いますが、母に対して声を荒げたり感情をぶつける状況は一度もみた記憶がないほどです。


夕飯が終わると必ず母に感謝の言葉をかけて、さっと書斎に行く父でした。
子どもにすれば話もしない、ちょっと退屈な親です。
「○○ちゃんちのお父さんは、いっぱい一緒に笑ったり遊んだりしてくれていいな」とよその家庭をうらやむ気持ちもありました。


自分が社会に出て何が大変かと言えば、重労働とか超過勤務とか緊張を強いられる場面とかではなく、仕事や人間関係での精神的な不安や悩みや葛藤です。
そしてそれはすぐに解決できるものでもなく、なんとなく心の中におりのように沈んでは時に浮かび上がってくるようなものでしょうか。


その気持ちの不安定さだけで、相手に不機嫌に接してしまったり失敗は数知れずです。
あるいは不安の渦のなかでもがけばもがくほど、泥沼に落ち込むような気持ちになりやすいものです。


父は家庭の外での気持ちの問題を家の中に引きずり込まないようにしていたのだと、冒頭の言葉から記憶が蘇って来たのでした。


「そういえばお父さんは、家では決して感情的になることはなかったものね。座禅をすることで、そういう気持ちを引きずらない訓練をしていたということなのかもしれないね」と話すと、父はちょっとうれしそうでした。


私もその父の背中をみて育ったのか、思春期以降は自分の問題を友人に聞いてもらうということはほとんどなく、自分で考えて答えを出すことが多くなりました。
今に至るまで、誰かに不安や悩みを話すということはほとんどありません。


ただ「引きずらない」というところまでは父には及ばず、感情の波がくることはあります。
それでも最近は穏やかな日々になりましたが、それは更年期のおかげか、はたまた記憶力が低下して間近な感情まで忘れられるようになったからか、あるいは競泳選手から学んだからか、だいぶ気持ちを引きずることは少なくなりました。


「気持ちを切り替えるって大事ですね」と父に話すと、「なかなか良いことを言うね」と褒めてくれました。


90歳近くになって認知症になってもなお相手のことを褒めることができる父に、「昔から父はよく人のことを褒めてくれた」とまたいろいろな記憶が蘇ってきました。


あーー私も心を入れ替えて、もっと周りの人の良いところに気づけるようになりたいものです。






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