父がお世話になっているグループホームでは、毎月「目標」がたてられて玄関に表示されています。
今月は「もっと知ろう。新たな発見があるかもしれない」とありました。
以前は「玄関の鍵をかけない時間を増やそう」というものもありました。
認知症の方が入所されているところでは、2重にも3重にも鍵をかけたりドアを増やすなど対策されていると思います。
ちょっと目を離した隙に、玄関から出てそのまま行方不明になれば大事故にもつながります。
父がまだ自宅で暮らしていた頃、母はやはり玄関に2重の施錠をし、センサーコールを設置して父が外に出ようとすると分かるように対応していました。
それでも一度だけ、行方がわからなくなって地元の方々や警察の方に探してもらったことがあります。
まだ足が丈夫だった時期なので、母が気づいたわずか10分ほどでかなり遠くまで歩き、そのまま道がわからなくなったようです。
ちなみにこの時の徘徊の理由は、父の兄弟の訃報が大きな不安をもたらしたきっかけだったのではないかと私は思っています。
いずれにしても認知症の方はむやみに徘徊しているわけではなく、何か不安などのきっかけで外に出かけてしまいやすいので、鍵をかけることが対策ではなくその変化に気づくことが大事という意味での目標だったのだろうと思います。
<ケアの目標とは何か>
看護でも病棟の年間目標をたてる施設も多いのですが、医療の場合には介護よりももう少し生命そのものの危機へのケアが中心になりますから、どちらかというと「安全性」や「機能や健康を少しでも回復する」という視点のケア目標が多くなるのかもしれません。
いいかえれば、「失った機能や健康を補う」ためのケアでしょうか。
こちらの記事で書いたように、「基本的欲求に対する援助」は看護だけでなく介護でもケアの基本ではあるのですが、医療のなかでは「失われた機能を補うこと」が最優先といえるかもしれません。
父がお世話になっているグループホームのスタッフの方々をみると、介護ではむしろ「まだまだあるその人の能力や魅力」を引き出そうとしてくれているように思えます。
<こんな一面があったのか>
家族といっても30年以上も別々に暮らしていた父ですから、むしろ知らない一面のほうがたくさんあります。
でも一緒に暮らしていた母でさえ、「えー、お父さんがそんなことできるの?」と驚くような関わり方をそこのスタッフの方々がしてくれます。
料理の下ごしらえに楽しそうに参加していたり、後片付けも率先してするようです。
「○○さんは本当に優しい方ですね。いつも私たちのことを気遣って、手伝ってくれます」と、毎回新たな父の一面を発見して教えてくださいます。
驚いたのは、父にグループホーム内の友人ができたことでした。
10人ほどの入所者がいるのですが、居間で集まっていてもみな黙ってそれぞれの世界に入っているように見えます。女性同士だとおしゃべりしていることもあるのですが、耳を傾けてもそれぞれ自分の話したいことを話しているだけで会話になっているわけではない、独特の雰囲気があります。
認知症の方は入所者さん同士をどう認識しているのか関心がありましたが、直前に何をしたかという記憶さえもどんどんとなくなる状態であらたな人間関係は築けないものと思っていました。
ところが最近、もう一人の男性入所者とお互いの部屋を行き来するようになったそうです。
何をしゃべるわけでもなく、ただ一緒にいるそうですが。
少年時代から日本軍のエリートコースに進んで以降、長いこと父は階級社会のなかで生きていましたから、「ただの友人」という存在が身近にいなかったと私は感じていました。
父にしたら、今はなんだか少年時代に戻った気分で友達ができたのかもしれません。
「もっと知ろう。新たな発見があるかもしれない」
ほんとうにその目標にそった関わり方をしているケアというものがあるのだと、同じケアをする仕事でありながらうらやましく思いました。
「ケアとは何か」まとめはこちら。