記憶についてのあれこれ 29 <誰もが「教える」人になる時代>

小学生の頃から始めたある習い事があります。
当時は真面目な性格だったので(笑)、きちんと練習をして通い続けました。


あと半年ほどすれば「師範」になるという時期に看護学校に入学したため、練習時間がとれずにその世界とは疎遠になりました。


高校3年生にして師範が目前になったところで、私はすごい恐怖心に襲われました。
それは、人に教える立場になることに対してでした。
正直なところ、師範になれなくて良かったと安堵したのでした。


1970年代終わりの頃でした。
当時、学校の教師以外に「先生」と呼ばれるのは、茶道や華道などのお稽古ごとで教える立場の人たちがいた程度だったよう思います。


<カルチャーセンターの時代>


1980年代に入ると、カルチャーセンターが急速に広がり始めて、「先生」と呼ばれる人の範囲もとても広くなったのではないかと思います。


あるいは大学でもオープンカレッジが始まり、大学教員の講義を一般の人も気軽に受けられるようになりました。
私もアフリカについて知りたくて、ある大学のオープンカレッジを受講したことがあります。


学ぶことの楽しさや共通の関心を持つ社会人との出会いなど、有意義な時間でした。


それと同時に、「人に教えること」を適性に持つ人がこんなにいるのだと、自分自身のあの恐怖心とつい比べてしまうのでした。
今は、適性ももちろん必要かもしれないけれど、やはり教えるだけの蓄積された知識や経験があった方たちであると理解できるようになりました。


そして「知らないこと」の限界を知っているからこそ、責任を持って人に教えてくれていたのだと。


<「伝える」と「教える」の境界>


1980年代に、日本でも民間のボランティア団体ができ始めました。
当時はNPOやボランティアというと「一般社会からはずれて生きている」イメージで、まあそれは実際そうだったのですが、まだまだごく少数でした。


そうした団体で「海外帰国スタッフの報告会」を開くときに公民館などのスペースを借りるのですが、どこもガラガラだったのですぐに会場を予約することができました。
ところが1990年代頃になると、NPOに限らず人が自由に集まって何かを活動することが広がり、そうした会場取りも大変になりました。


1980年代のカルチャーセンターをもっとカジュアルにした集まりがあちこちで開かれるようになり、「講師」もそれまでのように師範とか教員ではなく、となりのおじさんおばさんといった人たちでも気軽に教える側になっていました。


「自分の知っている事」や「自分の経験」を伝える場が増えたのはこの頃かと思い返しています。


それは言いかえると「自分の知らないこと」までは気にしなくてよい場であるのですが、知っている事を伝えることを教える事だと思い、また人に教えたい人が増えたのかもしれません。


本当はそれは「伝える」でしかなく、やはり人に教えるのは「知らない事を知っている」からこそできるのではないかと思います。


民間資格の林立>


「助産所数の推移と分娩施設外の業務」で、助産所のHPでみつけた「業務」と民間資格名を一部書き出しました。


1980年代終わり頃に助産師になった頃、ぼちぼちとマタニティスイミングやマタニティエクササイズなどが話題になり始めていた程度で、助産所界隈の話題でも「○○インストラクター」といった民間資格は見かけませんでした。


助産師の中の民間資格の老舗はなんといっても桶谷式乳房管理ですが、1990年代終わり頃まではそれ以外の民間資格はほとんど耳にすることはなく、時々、マタニティエクササイズのインストラクターなどを持つ助産師がいましたがどちらかというと珍しかった印象です。


おおざっぱな感覚ですが、2000年代以降、アロマに始まりさまざまな民間資格助産師の中にも広がりだしたように感じます。


今一度、それらの内容は「ただ知っていることや経験を伝える」ものなのか、「知らないことの限界を理解した上で教える」ものなのか、きちんと見直したほうがよい時期に入ったのではないかと思います。


お産の怖さを知らないからこそ「自然のすばらしさ」や「いのちの感動」を伝えたくなるのかもしれないし、栄養不足の怖さを知らないからこそ「母乳のすばらしさ」を伝えたくなるのかもしれません。


それを人に「教える」資格をつくる怖さも知らないままに。





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