数年前にkikulogというニセ科学のサイトに出会い、目の前が開けるような感覚がありました。
と書くと、なんだか新興宗教との出会いかなにかのようで危ないのですが。
現在はコメント欄が閉じられてしまっているのですが、そのコメント欄のやり取りを読みながら、今まで自分の語彙にはなかった言葉で何度もはっとさせられました。
そのひとつが「思考停止」という言葉です。
この言葉が自分の中に意識されていなかったということは、それまでの半世紀ほどの人生をまさに思考停止の状態に気づかずに生きて来たことに他ならないと、ひやりとしたのでした。
<「思考停止」とは>
はてなキーワードの思考停止では以下のように説明されています。
考えるのをやめること。
あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのままあてはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。
そうそう、kikulogのコメント欄ではこの思考停止という言葉とともに、「脊髄反射」もよく見かけました。
医療では特に珍しい言葉ではなく、はてなキーワードの脊髄反射の説明の前段部分に書かれている意味で使われています。
世の中ではこんな使い方もされているのかと、その最後の部分に書かれているような使い方を私自身は知らなかったのでした。
ある事象に対する反応として、短い時間で考えなしにとられたような行動を指して、比喩的に用いる場合もある。
その後、「思考停止とはどのような状況なのか」とネット上の議論や自分自身の言動を意識するようになりましたが、この「脊髄反射」の比喩的な使い方を知らなかったのは自分の言動がそうである事を意識していなかったからに他ならないということで、またヒヤリとしたのでした。
自分では考えていたつもりでした。
社会の不平等や開発問題、あるいは周産期関連の話題についても。
はてなキーワードの「使われる場面」には以下のように説明されています。
基本的に、きちんと論証する手間を省いて、「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。
「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人たちを指す時に使用する」。簡単に言えば「ダメ、ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対崇拝しろ」と主張したい人が使う。
考えていたつもりだったのは「気持ちの問題」のレベル、すなわち「感情的な正論」を言いたかっただけにすぎなかったのかもしれないと反省したのでした。
「気持ちの問題」という言葉も、kikulogではよく目にしました。
<「思考停止」に陥らないために>
「思考停止」と「気持ちの問題」という二つの言葉を知って、それまでの「自然なお産」や「母乳」万能、あるいは極端なミルク・哺乳瓶否定の流れもみえてきました。
まさに「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」といえます。
「昔のお産はよかった」「母乳はすばらしい」
こういう話題はメリット・デメリットを落ち着いて考えようとする隙間がないほど、気持ちの問題で思考停止しやすいのかもしれません。
ただ、その「思考停止」という見方の危険性も以下のように書かれています。
この言葉を使う事自体、往々にして、相手の発言を読み取らずに「反〜何とか」というレッテルを貼るだけに終わってしまう。すなわち「思考停止」という絶対主義の論理である。
いやあ、奥が深いですね。