時代というのは反動から反動を繰り返すことが見えるのが半世紀ぐらいかもしれないということをこちらで書きました。
自分自身が反動から反動へと繰り返した結果、最近、「中庸というのが大事だな」と思うことが多くなりました。
「こっちのほうが絶対によい」と信じていたことも、10年ぐらいすると「そこまでしなくても結果はかわらないかな」「そうだと信じ込みすぎると見えなくなることもあるな」と思えてきますし、「その考え方には反対!」と思っていたことにも「そういう見方もたしかにできる」「一理ある」と受け入れられるようになってきました。
あるいは「これが新しい考え方だ!」とそれを取り入れなければと焦っていたことが、「時代は繰り返すのだな」と、遠巻きにみることができるようになりました。
それを別の言い方をすれば、「年を取ると丸くなる」ということかもしれません。
<中庸とは>
そういえば「中庸」という言葉を何気なく思い起こしたのですが、どんな意味があるのでしょうか。
えへっ、お手軽ですがWikipediaの中庸の「『中庸』の中庸」から引用します。
「中庸」の「中」とは偏らない、しかし、決して過不及の中間をとりさえすれば良いという意味ではない。よく中途半端や50対50の真ん中と勘違いされている。中間、平均値、足して2で割るというものではない。常にその時々の物ごとを判断する上でどちらにも偏らず、かつ平凡な感覚でも理解できるものである。
ふーん、奥が深いですね。
goo辞書では、「かたよることなく、常にかわらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま」とあります。
「本質的な」に近いニュアンスかもしれません。
そして論語の後段では、「『民に少なくなって久しい』と言われ、この『過不足なく偏りのない』徳は修得者が少ない概念でもある」(Wikipedia)と書かれているそうです。
耳が痛いですね。
まあ、反動から反動を経験したからこそ、何が偏っているのかが理解できたともいえるので、私の人生も無駄ではなかったと思う事にしましょう。
でも、できるだけ早いうちからこの「中庸」を見極められる能力を得た方が、人生はもっとよかったかもしれません。
<「出産・育児」関係の反動から反動>
服装のファッションぐらいなら過激なものから保守的なものへ、あるいはその逆に変化しても好き好きで選べばよいし、時代が変わってはやりすたりがあってもよいと思います。
あとで思い返せば、ちょっとはずかしい格好をしていたなという赤面ぐらいで済みますからね。
ところが出産や育児関係のはやりすたりは、本質的に大事な部分を見えないなようにさせてしまうのではないかと、ここ20〜30年ほどを思い返しています。
本質的なというのは、出産であれば「母児の安全性」であり、育児の授乳(栄養)に関してであれば「児に十分栄養を与えること」と「母親が休息をとれること」ではないかと思います。
そのあたりを「中庸とは何か」、次回にもう少し続けてみようと思います。