行間を読む 38  <「保育」はどのようにひろがったのか>

昨日紹介した「乳児保育」という保育教育で使われていた教科書を読みながら、「保育」はどのように日本の社会に広がり、変化したのだろうと気になりました。


記憶に新しいのは、1999(平成11)年に、「保母さん」から「保育士さん」へ名称が変化したことです。
Wikipwdiaの保育士には以下のように書かれています。

1999(平成11)年以前の正確な資格名は「保母」であった。それまで、この職業に従事する者は、ほぼ例外なく女性であったが、1985(昭和60)年の均等法や1999(平成11)年の男女共同参画社会基本法の設定を実践して、1990年代から徐々に男性保母の就労数も増えていた。


たしかに私が看護学生時代に保育園実習に行った1970年代終わり頃は、園長さんが男性だった以外は保母さんは女性でした。
1980年代終わり頃になると近所の保育園にも男性の保母さんの姿をみるようになり、まだ珍しがられていました。


日本社会に看護が取り入れられたのは1882(明治21)年であったことはこちらで書きましたが、保育の歴史はどうなのでしょうか。
保育士さんたちはそういう歴史も学んでいらっしゃるのだと思いますが、私は保育関係はわからないので検索していたら、「戦後草創期の保育所 ー元保育所保母の語りを手がかりにー」(松本なるみ氏、文京学院大学人間学部紀要、2009年)の中で保育所の変遷がわかりやすくまとめられていました。


従来保育所は、経済的に貧しい保護者が労働に出ているあいだ乳幼児を保護する保育形態で、古くから見られた。近代社会における慈善事業の施設として創設されたものは、明治中後期以降の託児所であった。大正になると社会事業思想により慈善事業から脱皮しつつ、社会政策的な性格を帯びた児童保護事業として取り上げられるようになった。保育所が大都市のスラム地帯に多く設立され、また、浅野セメントや専売局などのように、職場にも託児所が設けられるようになった(松本、2009)。しかし、戦前の託児所は法的根拠を得ることはできず、生活困窮家庭を救済するために、その乳幼児を受け入れる保護施設であった。戦後、児童福祉法の制定により、保育所児童福祉施設となった(p.199)。

1938(昭和13)年ごろからは、軍事力を増強し、家族養育を補うために保育所の設置が促進されている。
戦後日本の国家再建に必要と考えられたのは経済政策であり、労働力を確保し、女性の社会的地位の向上と合わせて、保育所は社会に必要な循環をもたらす施設と考えられるようになった。(p.199)

福祉行政は12万人にのぼる孤児・浮浪児の保護や1千万人にのぼる貧困者の緊急保護に追われる状況にあり、戦後の保育事業は民間の協力なしには、成り立たなかった(植山ほか、1978)。公立の保育園が私立の保育園の設置数と並ぶのは、戦後草創期の終わり1954(昭和29)年頃のことである(p.199)

保育所保母の資格について、戦前をみると特別な規定はなく、幼稚園の保婦資格を持っている者が保育所保母として働き、無資格者も多く存在した。(p.201)

その後、1947(昭和22)年からの暫定的な保母資格認定講習会を経て、1950(昭和25)年から本格的に保母養成施設が始まったようです。


p.204からの「戦後の保育所保育」には、興味深い聞き語りが書かれています。
その中でも「ー幼稚園と保育所ー」に書かれている以下の部分は、1960年代に私が子どもだった頃の周囲の大人の会話からも感じられたものでした。

「幼稚園側は、22年に幼稚園が学校ということに認定されたときに、保育所を下に見られる、そういうことがありました。だから働いている親が小さい子どもを保育所に預けてまで、そんなにしてまでお金が欲しいのかという非難もありました。それで保育所に行く子は教育が受けられないとか、学校に行っても差別される時代。おまえ保育園出身だろうが、医者の子なのになぜ保育園に行ったとかですね、そういうことがいっぱいあったのですよ」

保育所はね、幼稚園は幼児教育をするところだけど、保育所は親に代わって子守りをするとこどだというね、住民意識がものすごく強くてね(以下略)


このあたりが、昨日の「乳児保育」から引用した、「わずか十数年前までは、ホスピタリズムのための集団保育の極端な否定から施設罪悪感さえみられたことを想起する」という一文の背景にあったものかもしれません。





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