前回の記事で、厚生労働省の「人手不足で『施設の統合』検討」というニュースに感じたのは、資格を取得した後に長い時間をかけて形成される専門性への視点が弱いことでした。
では、ケアの専門職の専門性とは何でしょうか?
究極の目標は、「その人がして欲しいと思うケアの実践」に近づくことではないかと思います。
ところが現実には、「よいケアとは何か」と理想と現実で打ち砕かれる毎日です。
「ケアは誰でもできると思われている」「ケアは女性がすべきと思われている」あたりも、ちょっぴり自尊心をうずかせるものです。
あるいは、人手不足やコスト不足といった現実的に綱渡り状態なのに、先が見えない閉塞感もあります。
ただどちらかというと私自身は、「自分が良かれと思って実践したケアが相手には必要でなかったり、かえって不快にさせたりしたこと」に落ち込みます。
それは仕事上だけでなく、両親の介護に対しても同じです。
こちらがいろいろと考えて対応したのに、親が求めているものとは違っていることがたくさんあります。
<ケアをする側がケアされる側になるということ>
たとえば、私が両親の立場になって「本当にしてもらいたいケア」が理解できるようになるには、私自身が高齢者になり認知症になった時ではないかと思います。
もちろん、ケアの専門職自身が自分の闘病経験や、家族をケアした経験を生かすこともできるのですが、「本当にしてもらいたいことはこういうことだったのか」と理解できるのは、自分自身が障害を負ったり高齢者になって初めてケアを受ける当事者になった時ではないかと思います。
あるいは保育であれば乳児から幼児まで誰もが経験したはずのことですが、その頃の自分は何を感じていたのかさえわかりません。
「ケアを受ける当事者としての視点がない」
それをあの厚生労働省の方針に強く感じたのでした。
「当事者の声を聞いていない」というよりも、自分自身が老いていくことや体が不自由になり誰かの手を必要になるということがどういうことなのかということから目をそらしているような、そんな感じです。
いえ、でもそれは厚生労働省の方々だけでなく、誰もがそうなのだと思います。
死ぬとはどういうことか当事者になって初めてわかるように、ケアを受けることも、日頃考えているようで考えていないことのひとつかもしれません。
そして年を取り、ケアを受ける当事者に少しずつなる頃には、「どうして欲しいのか」さえうまく伝えられなくなる。
そこにケアの難しさがあるのだと思います。
「ケアとは何か」まとめはこちら。