世界はひろいな 28 <きゅうりはどのように食べられて来たのだろうか>

昨日の記事で、少し気温が上がり始める3月になると急に生野菜を食べたくなることを書きましたが、記憶を辿ってみると、これもそんなに以前からのことでもないように思います。


20年ぐらい前でもキュウリはまだ季節感があって、1年中食べていたわけでもないし、店頭に出回り始めるのは5月頃の初夏の陽気になった頃だったような気がします。
それもハウス栽培なのでまだまだ高く、露地物が出始めるのは6月終わりごろだったような。
そして旬の7月8月は、「キュウリの季節が終わる前までに」とこれでもかというほど毎日キュウリを食べていました。
あやふやな記憶ですが。


最近は一年中、キュウリが普通に店頭にあるし、値段もやや高い時期はあっても比較的手頃に購入できるようになりました。


この春先からキュウリを食べたくなるようになった理由には、キュウリがいつも購入できるだけでなく、住宅環境も良くなって暖房の効いた温かい室内での生活が嗜好の変化に影響しているような気がするのですが、どうでしょうか。


<きゅうりを栽培し、流通させる>


「キュウリ、ハウス栽培」で検索するだけで、全国各地のキュウリ栽培について知ることができて勉強になります。


JA長野県の「キュウリはなんにも話してはくれないけど」というキュウリ生産農家の方へのインタビュー記事も興味深く読みました。


温度管理や水やりなど、生産農家の方々の何十年もの経験やデーターから、現在のように一年中おいしいキュウリを食べることができるようになったのだと改めて感謝ですね。


あと、キュウリの収穫も手袋の先に刃がついた道具で行われていることを、初めて知りました。


農林水産省「野菜をめぐる情勢」(平成25年11月)を読むと、野菜の安定供給のためにさまざまな試行錯誤が積み重ねられて来たことがわかります。


キュウリではないのですが、「キャベツの産地リレー(関東消費地向けのイメージ)」(p.3)の図のように、「わが国では長い日本列島をうまく使って、産地リレーにより季節によって産地を切り替えながら、野菜の安定供給を行っている」とあります。


このことを実感したのは、2011年3月の東日本大震災直後でした。
震災後数日ぐらいは店頭から野菜も商品も姿を消していましたが、徐々に野菜を買えるようになりました。
日頃はそのお店では見かけることのなかった関西や九州からの野菜でした。


このような遠方からの出荷を可能にしたのも、高速道路を始めとした社会の基盤整備が地道に行われてきたからこそですね。


「肉は背後カロリーが高いから食べない」と心をかたくなにしていた20代の頃の私なら、「ハウス栽培の野菜なんて資源の無駄遣い」「高速道路や車社会は悪」と、こうした春先に出回るキュウリにも憎悪の感情を持ったのではないかと思います。


今はむしろ、こうしたそれぞれの立場の日々の目に見えないけれど複雑なシステムによって、私たちの安定した生活が守られていることを感じます。


<暖かい地方のほうがキュウリを食べない?>


キュウリで検索していたら、住友化学園芸「キュウリの育て方」におもしろい話がありました。

唐の玄宗皇帝の時代、740年頃には、すでに火室を用いた促成技術が発達し、寒い2月中旬にも生産されていたというからおどろきです。


現代のハウス栽培でも温度管理は相当大変そうなのに、当時の火室はどんな感じだったのでしょうか?


それにしても、当時の唐の真冬の寒さというのは「極寒」ではないかと思うのですが、それでもキュウリを食べたいと思ったことも驚きです。


1980年代に東南アジアで暮らした頃、日本ではまだ年中キュウリが手に入るわけではありませんでした。暑い国なら一年中キュウリを食べることができるに違いないと期待していました。
ところが、その国ではキュウリはあまり食べられていない様子で、料理の横に彩りを添えるために薄切りのキュウリが飾られている程度でした。


暑い国だからこそ水分補給のために好まれそうなのですが、そういえば難民キャンプでよく食べたベトナム料理やカンボジア料理でもキュウリはほとんど見かけませんでした。


寒い地方の方が、火室を作ってまで食べたくなるのでしょうか?
不思議ですね。




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