記憶についてのあれこれ 68 <高低差を歩く>

先日のエスカレーターから、また回想の世界へ。


首都圏近郊は、1960年代頃から次々と農地や丘陵地の宅地化が進められてきました。
私が住んでいる地域は1960年代頃に住宅化が進んだところで、当時はその私鉄沿線はまだ畑が続いて隣りの駅が見えるほどだったという話を聞いたことは、以前も書いた記憶があります。


駅名にも「沢」とか「山」とか高低差があったことを感じられるものがあり、自転車で走るとけっこうその高低差を実感します。
自転車をほとんどこがないでも楽々走れると坂道を喜んで下っていると、「行きはよいよい、帰りは怖い」というはめにもなりますね。


あるいは夜勤明けでへとへとになって歩いていると、そのわずかの土地の高低差がとてつもなく高いハードルに感じることがあります。


地面だけでもけっこうな高低差の中で生活をしているのだと思います。


<建物の高低差が大きくなった>


地面の高低差に加えて、1960年代以降は建物の高層化も進みました。


幼稚園児だった1960年代前半には、池袋の西武デパートや東京駅の大丸デパートに行くのが、親にとっては休日の贅沢のようでした。
都内のそういう建物や古い病院には、まだ古いエレベーターがあった記憶があります。
あのセピア色の映画に出てくるような、格子戸のついたエレベーターです。


たぶんエスカレーターもあったと思うのですが、私にとってエスカレーターの記憶はなぜか1970年の大阪万博に行った時の記憶とつながるのです。
その万博に行く時に初めて新幹線に乗ったのですが、ホームにエスカレーターがあったことが印象に残っているのかもしれません。
あるいは初めて動く歩道を体験したからでしょうか。


今こそ、在来線は高架化・地下化や駅ビル化が進んで、駅の中にエスカレーターのあることは当たり前ですが、1990年代でもまだまだ駅舎というのは高低差の少ない平屋建てだったところがたくさんありました。
小田急線を読むと世田谷代田〜喜多見間の複々線化工事が始まったのは1994年ですから、あの経堂付近の平屋建ての駅舎があった記憶もそう昔ではないわけですね。


建物の高低差が大きくなり、エスカレーターを使うことが日常的になったのもここ20〜30年ほどと言えるかもしれません。


<高低差を移動するには体力が必要>


土地の高低差といえば、こちらの記事の<焼畑農業・・・持続可能なもの>に書いたように、30代の頃に一時期、少数民族の部落に寝泊まりしていました。


部落に行くのにも、幹線道路から1〜2時間ぐらい山道を歩くのは普通でした。
さらにその部落から離れたところにあらたに畑を開墾するというので、一緒に連れて行ってもらったことがあります。
私には「道無き道」を進んでいるように思えるほどの山の中を、目的の場所へ行くために何度、登ったり下ったりしたことでしょう。


1週間ほどそこでキャンプのような生活をする間に、彼らは毎日、食糧や荷物を運ぶために部落まで軽々と往復をしていました。
すごい体力と身体能力だと思いました。


そういう集落では、出産・育児をする年代は大事な労働力なので、体力の落ちた年代が日中、子どもの世話をしている姿をよく見かけました。



風貌がいかにも老人で60代とか70代に見えるのですが、<アフリカの老人>と同じく、まだ40代とか50代だったのでした。
1940年代から50年代の日本と同じかそれ以下の平均余命ですから、そもそも70代とか80代の高齢者を見かけた記憶がありません。


当時30代の私の目に映ったあの地域の「おばあさん」の年齢をもう超えてしまったことに、軽いショックがあるのですが、でもあの地域のその年代の人たちが日本に来たらもっと驚くことでしょう。
70代、80代の高齢者が電車を乗り継ぎ、買い物やスポーツをしているのですから。


高齢者が体力や身体能力の衰えを補いながら、この高低差の大きい日本で生活を続けられる。
その陰には、エスカレーターやエレベターの恩恵が大きいのかもしれませんね。


高齢化社会というと負の面が強調されることが多い印象ですが、体が弱くなっても暮らせる社会を作り出してきたことは大きなメリットではないかと思います。






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