行間を読む 46 <祈りと希望>

4月18日のNHKニュースで、「旅客機墜落 ドイツで追悼のミサと式典」がありました。


先月フランスで起きたドイツの旅客機の墜落を受けて、ドイツのケルン大聖堂で追悼のミサと式典が行われ、遺族や政府の代表などおよそ1400人が犠牲者を悼みました。


先月24日、乗客乗員150人を乗せたドイツの航空会社「ジャーマンウイングス」の旅客機がフランス南部で墜落しました。
旅客機の目的地だったドイツでは17日、西部にある世界遺産ケルン大聖堂で追悼のミサと式典が行われ、犠牲者の遺族をはじめ、ドイツのガクウ大統領やメルケル首相、それにフランスやスペインなど関係国の代表などおよそ1400人以上が参列しました。大聖堂の内部には死者の数と同じ150本のろうそくが並べられ、兄弟をなくした女性が「私たちの親族や友人たちに新たな住みかを与え見守ってください」と声を詰まらせながら祈りのことばをささげました。

ドイツのガクウ大統領は、「起きてしまった悲劇をもはや失くすことはできません。しかし、われわれは無力ではないのです」と述べ、遺族との連帯や支援を訴えました。


今回の墜落は精神的な病気があった旅客機の副操縦士が機長を操縦室から閉め出して故意におこしたと見られていて、ドイツ政府や航空当局などは再発の防止に向けて、操縦室のドアの構造やパイロットに対する検診の見直しを検討しています。


このニュースのご遺族の祈りと大統領の言葉から、「聖書は失敗学」であることをまた感じました。


この旅客機事故の原因は、リスクマネージメントが徹底されている運輸関係でも「想定外」だったのではないかと思います。「まさか、こんなことが起こるなんて」と。


ご遺族はその理不尽なことに、どのように感情と向き合ってこられた1ヶ月だったのでしょうか。
航空会社や政府関係者も、この重大事故の対応に追われる間、心身ともに憔悴する1ヶ月だったのではないかと思います。


そして「死者と同じ150本のろうそく」とあるように、副操縦士もまた「犠牲者」として追悼されているところに、人は誰もが罪を犯す存在であるという考えがあるのかもしれません。
生きている限り、誰もが事故や犯罪を起こす側にも犠牲者にもなる可能性があり、またそのどちらの家族にもなる可能性があるのですから。


祈りとは自分の内面に向き合うことであり、そこから感情を解きほぐし、自分にも他者にもよりよい解決策を探す過程でもあります。
日本語にしたら「折り合いをつける」が近いかもしれません。


ニュースからは追悼式の一部しかわかりませんが、おそらくご遺族は自分の悲嘆だけでなく、事故を引き起こした副操縦士とその家族のことも祈った1ヶ月間だったと思います。


「新たな住みかを与えて見守ってください」という遺族の祈りと、大統領の「遺族との連帯」とは何を指しているのでしょうか。


きっと人の失敗を赦し、再発防止策という希望へつなげるために必要なことは、感情に油を注ぐような報道あるいは当事者を対立させるようないかなるイデオロギーをも持ち込まず、当事者をそっと見守って欲しいということかもしれません。


こうした重大事故の最初の対応としてそうしたことが大事ではないかと、この祈りと希望を伝える追悼式から感じたのでした。





「行間を読む」まとめはこちら
失敗とかリスクに関する記事のまとめはこちら
聖書に言及した記事のまとめはこちら