記憶についてのあれこれ 69 <いす>

先日、イランの観光が注目されているというニュースの中で、旅行会社のオフィスの映像が写りました。
その映像を見て、また回想の世界へ。


30年ほど前にインドシナ難民キャンプで働くために、当時虎ノ門にあった国際移住委員会(現国際移住機関)のオフィスに面接に行きました。オフィスといっても女性事務官がお一人のこじんまりとしたものでした。
とても緊張して行きましたが、面接は簡単な英会話だけでした。


少し私の緊張を解きほぐしたのが、椅子の配置でした。


事務官と机をはさんで面と向かうのではなくて、事務官の机のところに来客用の椅子が横に向いて二つ並べてあるのです。
洋画などで、そういう場面に気づくこともあると思います。


それまでの「面接」とか、オフィスの机の配置に対してイメージしていたものが覆ったように感じました。


冒頭のイランの観光業者のオフィスの映像にそういう机と椅子の配置が映っていて、なんだか懐かしくなりました。
日本の会社のオフィスとは縁がないのですが、やはりまだ国内ではあまり見かけないような印象ですが、どうでしょうか。


<自由に座れる椅子>


なぜその椅子の置き方に懐かしさを感じたのだろうと考えていたのですが、机に対して横向きにおいてあるだけで、「誰もが自由に座れる椅子」というメッセージを感じたからかもしれません。


日本では他所を訪問したときには、「どうぞおかけください」と言われるまでは座らないし、座れない雰囲気があります。


赴任先の国の役所やオフィスは、みなそういう椅子の配置になっていました。
用事があって外から来た人が自由にそこに座ります。
担当者がいなければ勝手に座って相手が戻ってくるまで待っていたり、時にはあまり用事がないのにおしゃべりするためだけに座るのでした。


私の担当だった予防接種のオフィスも、私の机に対して来訪者のための椅子が横向きに置かれていました。
誰もが自由にふらっと入って来て、その椅子に座っておしゃべりをし、そしてまたいなくなる。
そんなことがしょっちゅうありました。


この椅子の向きは威圧感を少なくしてくれて、なかなかいいかもしれないと思いました。


<玄関にある自由に座れるベンチ>


もうひとつ、その国でいいなと思った椅子があります。


それは玄関にかならずベンチがあることでした。
2〜3人が座れるぐらいのベンチが玄関に直接つけられていて、そこでぼーっと通りをながめていたり、近所の人とおしゃべりをしています。


おしゃべりといっても、その国の人たちは男女ともに総じて静かに話すのでそばにいかないと聞き取れないくらいで、うるさく感じたこともありませんでした。


パンや魚を売り歩いている人がくるとすぐに呼び止められるし、いろいろな情報交換の機会でもあるようです。


日本だと隣りの家を訪ねるのにもいろいろと気を使いますが、そこではふらっと誰もが玄関のベンチに好きなように座っているようでした。
家の内外の境界線がないか、とても緩やかだと感じました。


私もよくその玄関のベンチに座って、庭先のブーゲンビリアをながめていました。


「もしも私が家をたてたなら」、この玄関のベンチが欲しいなと思いました。
夢は実現されないまま終わりそうですが。







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