記憶についてのあれこれ 71 <カンボジア>

「難民になった蛇」の記事で、その蛇はカンボジアからやってきたことを書きました。


カンボジア」というと、私はその国との不思議な巡り合わせのような記憶がいくつかあって、いつかきちんとその記憶を整理しなければいけないという思いにかられるのです。


大阪万博カンボジア館>


私が初めてと言ってよいほどカンボジアという国名を意識したのは、1970年に大阪で開催された万国博覧会でした。


小学校低学年ですから、最初は「かぼちゃの国」と勘違いするぐらい幼い発想で意識したのだと思います。
ところがあれから40数年たった今も、あの大阪万博で一番印象に残っているのがカンボジア館なのです。


どこまでが記憶で、どこまでが想像上の印象なのかがよくわからないのですが、パビリオンに入った時に、中が黄金色に輝く稲穂の風景が広がっていたのです。
その美しさと、子供心ながらに豊かさを感じたのでした。
あれは本当に展示されていた風景だったのだろうかと気になり、「大阪万博カンボジア館」で検索してみると、なんとあのパビリオンがそのまま保存されているようです。


「OSAKA BAN PACK! [巷の"大阪万博"]」というサイトに写真があり、神戸市北区にあるそうです。
「現存する大阪万博パビリオンのうちでも、最も愛され大切にされているのがこれです」とあります。
うれしいですね。


それにしても小学生の時にみたパビリオンはとても大きな宮殿のように感じたのですが、以外とこじんまりしたものだったのですね。


<1970年のカンボジア


平和の祭典、万博会場で私がカンボジア館に魅せられていた時に、その本国では大変なことが起こっていました。
Wikipediaカンボジアの「独立と内戦」に以下のように書かれています。

独立後、南北に分断された隣国ベトナムベトナム戦争が始まると国内は不安定化し、アメリカ合衆国と南北ベトナムの介入によってカンボジア内戦が勃発した。1968年にはアメリカ軍の空襲が始まり、1970年には親米派ロン・ノル将軍がクーデターによりシハヌーク国王を追放し、クメール共和国を樹立した。


小学校低学年でしたが、「ロン・ノル」「シハヌーク」という名前はニュースで耳にして記憶に残っています。でも私には、あの稲穂輝くカンボジア館とはつながっていませんでした。


「メコン圏と日本(地域・人)との繋がりを考える」というサイトに、「日本万国博覧会カンボジア3.18クーデター」という記事があり以下のように書かれています。

日本万国博覧会の会期がスタートした日からわずか3日後の、1970年3月18日、シアヌーク殿下が北京に外遊中、カンボジアではカンボジア国民会議、王国会議の合同会議がシアヌーク国家元首を解任し、元首代行にチェン・ヘン国民議会議長を選出、実権をロン・ノル首相兼国防相とシリア・マタク副首相が握るという政変クーデターが起きた。


たしか、私は春休みを利用して万博を観に行ったので3月下旬だったと思います。
今更ながらに、当時、本国ではクーデターで大混乱の時期であったことに驚きました。


ポル・ポトの時代>


Wikipediaの「独立と内戦」では、以下のように続きます。

1975年4月17日、極端な共産主義を掲げるクメール・ルージュポル・ポト書記長がクメール共和国を打倒し、民主カンプチアを樹立した。


カンボジアはわずか10年の間に、クメール共和国民主カンプチアそしてカンボジアへと3回も国名を変えたのでした。
伝え聞くだけでも、身の毛がよだつような大虐殺と抑圧の歴史とともに。


私がインドシナ難民キャンプで働くことが決まったのは、ちょうど「カンプチア」から「カンボジア」へと国名が変わった頃でした。


似た名前ですが、当時カンボジアの状況を知る人にとっては、絶望から希望へと変化するほどの違いがありました。


<日本に定住したカンボジア難民の方々>


数年前に偶然、日本に定住したカンボジア難民の2世の方に出会いました。


ご両親は民主カンプチアから陸路タイへ脱出し、難民キャンプで過ごしたようです。
その方は、難民キャンプで生まれました。
その人を証明するのは、難民キャンプの医師がサインした出生証明書1通のみです。


日本では特別在留許可書があり、ふだんの生活や進学はそれで対応できていますが、日本人と結婚するにあたっては「本国」の戸籍が必要らしいということで悩んでいました。
その法的な手続きは私も不勉強だったので話を聞くしかできませんでした。


私と同じ年代であるご両親と私の人生が重なり合いました。
私があの万博でカンボジア館に魅せられていた頃、ご両親はどんな子ども時代だったのだろう。
私がインドシナ難民キャンプで働くことに意気揚々として日本を出た頃、難民キャンプにたどり着いたご両親の人生はどんなものだったのだろう。
そしてその頃に難民キャンプで生まれた方が、目の前にいる。


カンボジアと聞くと、私にはたくさんのやり残した宿題を抱えているようにいろいろな思いがわきあがってきます。
まだ一度も訪れたことがない国なのですが。






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