思い込みと妄想 20 <抽象と捨象>

仕事柄、相手を観察することを意識しています。
観察が身についてしまったのか、仕事を離れても目の前にいる人をついつい観察しています。


体温・血圧といったデーターで示されるバイタルサインや、顔色、痛み、食欲など客観的には表現しにくい身体変化、あるいは精神的な変化や家族関係などの情報は、その人に合わせた治療やケアの基本になります。


そのために必要なのが「対象の観察」です。
看護学校1年生の時に、「看護論は科学でなければならない」で紹介した薄井担子(ひろこ)氏の教科書を使って、観察の基本を学びました。
1970年代終わりの頃でした。


ところが、新生児が小指をたてるという同じ現象をみても、「それはふつうにあること」と「舌小帯切除が必要」という正反対の認識になってしまうのは何故でしょうか。


あるいは、小児看護的には症状の悪化であるはずなのに、喜ぶべき好転反応」というとらえ方をする人もいます。


「観察」とは何か。
私自身もその言葉を当たり前すぎる言葉として使ってきたのかもしれません。


<全体的、定性的を知る>


コトバンクを見ると、まず「ブリタニカ国際大百科辞典」の解説があります。

事象や現象を注意深く組織的に把握する行為。類似語の観測は、天体観測、地震観測などのように天然の対象を観察し測定することをいう。観察は広義には、測定を含むが、狭義には、光に対する植物の反応の観察とか、電子顕微鏡による微結晶の観察などのように、挙動やパターンを全体的、定性的に知ることをいう


出産直後のお母さんやお父さんたちが我が子のことをよく観察していることは、こちらの記事で書きました。
特に分娩直後に多くの方が成熟徴候に気づいて、不安そうに「これは大丈夫ですか?」と質問されます。


新生児には必ずあるものであることとなぜなのか(全体的、定性的)を説明すると、安心されます。
親にすると我が子の状態しか見えていませんから、新生児の全体はどうなのかを示すのが産科スタッフの仕事であると言えます。


観察だけでは不十分で、そこから全体像を知るという段階へ進むことが大事なようです。


<より正確な概念のための観察>


コトバンク日本大百科全書(ニッポニカ)の説明は、なるほどと思うことが書かれていました。

 観察は、実験とともに自然科学の重要な研究方法である。したがって、理科教育(自然科学教育)の学習方法としても重視されてきた。自然科学の研究対象である自然は、客観的な実在であるから、われわれの頭のなかでさまざまに解釈しても、自然そのものの構造や法則性が明らかになるわけではない。われわれが、自己の身体や道具を使って自然に直接働きかけることによって、初めて自然は、その構造や法則性をわれわれに語りかけてくる。その働きかけが実験や観察である。


「新生児や乳児の小指が立つ」という事実を観察できても、「体が硬い証拠」「舌小帯を切除するとよい」といった頭のなかでのさまざまな解釈は、それが本当に法則性をもっているかどうかということではないということですね。


 われわれが、観察をもとにして自然の事物や現象に関するさまざまな概念を形成していく過程は複雑である。まず最初に、いろいろな感覚器官を通して得られた感覚が、大脳に伝えられて、そこに近くを生じさせる。それからいろいろな知覚が統合されて一つの表象がつくられ、続いてその表象が他の表象と比較されたり、分析されたり、総合されたりして抽象や捨象が行われ、一般化されて一つの概念に高まるのである。したがって、自然をありのままに、主観を混ぜないで見れば、自ずから自然についての正しい概念が得られるなどということはありえないのであって、観察から概念形成までには高度な思考過程が含まれている。それと同時に、ひとつの概念が実際の事物や現象と正しく対応し、豊かな内容を持つためには、その概念が事物に対する豊かな感覚や知覚によってうらづけられていなければならないのである。


抽象はよく使われる言葉ですが、捨象という言葉は初めて知りました。


ネジバナの研究をした中学生が、最初は「ネジ花の茎をルーペでよく観察すると、やはり茎がねじれているのが観察される。やはり茎がねじれて、ネジバナになっているんだと考えた」のですが、のちに「しかし、さまざまなタイプを観察すると、そうとばかりはいえないことがわかってきた」と書いています。


これが抽象と捨象というあたりでしょうか。


捨象がなされないとせっかくの観察もいかされずに、思い込みから誤った結論を導いてしまう危険性があるということだと思います。




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