反動から中庸へ 4 <無事に生まれればそれで良いです>

世の中の感じ方は反動から反動へと変化して、最終的に中庸へと落ち着いていくのかもしれないと思うようになったことをこちらの記事に書きました。


最近、妊婦健診に通う方々に、「お産や産後に何かこうして欲しいとかご希望はありますか?」と尋ねても、「いえ特にありません」「思いつきません」とおっしゃられる方が増えてきた印象があります。


そして「無事に赤ちゃんが生まれてくれればそれでいいです」「お任せします」と。


私はそういう時に、やはり社会というのは本質的に大事な部分がきちんと残っていくのかもしれないと、本当にほっとした気持ちになります。


私が助産師になった1980年代終わりごろは、医師や助産師にお任せするような態度ではいけないという雰囲気がたかまり始めていて、「主体的なお産」という言葉が広がりました。
その「主体的なお産」とは何かと問い直した記事はこちらです。

「主体的なお産とはどのようなことか」
「産ませてもらうお産」
「『産ませてもらう』と感じる時は?」
「『産ませてもらう』と感じる時ー妊娠編」
「『産ませてもらう』と感じる時ー出産編」
「『自分で産む』という表現」
「再び、『主体的なお産』とは何か」


確かに、80年代までは夫や家族が出産時に妊婦さんの側にいることもできない施設がほとんどですし、赤ちゃんと一緒にいたくても翌朝まで会えないことが一般的でした。


産む方やご家族の「こうしたい」「こうして欲しい」という声を、医療機関側もようやく聴く余裕がでてきた時代に入ったといえるのかもしれません。


反面、分娩台や点滴、会陰切開などの医療処置や帝王切開にまで、「不必要な医療処置はしないで欲しい」という気持ちを残してしまったのではないかと思います。
そのあたりは「医療介入とは」で書いてみました。


1990年代にはいると、「私らしいお産」「アクティブバース」「主体的なお産」など、さまざまな言葉が作られて、出産へのイメージも多様化しました。


「バースプラン」という言葉が広がり、産科施設でも取り入れているところが急増しました。
「分娩中、CDをかけたい」「アロマを使いたい」「へその緒がついたまま赤ちゃんを抱きたい」「できるだけ医療処置はしないでほしい」


そして2000年代に入ると、カンガルーケアが出産の一風景になりました。


さて、最近の「特に思いつきません」という妊婦さんたちですが、何も考えていないわけではないようです。
「いろいろネットで調べたり、友人の話を聞くけれど、やはりお産はどうなるかわからないので、何をしたいかといわれても思い浮かばないのです」
とても現実的な受け止め方だと思います。


また「赤ちゃんに負担がかからないように、必要な時には医療処置もしてください。帝王切開でもかまいません」とおっしゃられる方も増えてきた印象です。


そして、「こうして欲しい」という中でよく耳にするのが、「お産の経過について、その時々の状況を説明して欲しい」というものです。


出産にしても育児にしても、「こうすればうまくいく」「こうすれば良い子に育つ」かのような方法論よりは、どういう見通しなのかを知りたいのだと思いますし、私たちも多様な状況の中でそのお母さんと赤ちゃんはどのような状況なのかを伝えるためには知識と経験を積むしかありません。


そして、「バースプランというのは矛盾した言葉」であるという本質に、社会が変化し始めた手ごたえを感じています。





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