子どもの頃、1960年代から70年代初頭は、まだ今のように市販のお菓子を手軽に買える時代ではありませんでした。
家での手作りのお菓子が多かったと記憶しています。
冬には祖父がついたお餅が送られてきました。現在のような宅急便はなく、郵便の荷物として送られてくるので、届いた頃には少しカビが生えた部分があったり、表面はだいぶ乾燥しはじめていました。
現在では一部分にカビがあれば食品全体にそのカビが広がっている可能性を考えて捨ててしまいますが、当時は貴重な食糧でしたからカビの部分だけを切り捨てて焼いて食べたり、食べきれない部分はサイコロ状に切って乾燥させ、焼いたり油で揚げたおせんべいになっておやつになりました。
上新粉や白玉粉もまだどの家庭でも身近にあって、あの米粒からお餅や米粉になってさまざまな食品に変化することに、お米ってすごいと思っていました。
あと、自宅ではつくれませんが、ポン菓子はお米そのものの形状をしていながら、膨らませて乾燥させただけでこんなにも違う食品になることがおもしろしろく感じていました。
ところで、ポン菓子は日本など米を主食とする国でできたと思っていたのですが、Wikipediaを読むと違うようです。
1901年ミネソタ大学の研究者だったアレクサンダー・ビアーズ・アンダーソンが、穀物の研究中、米が膨張することを発見した。(中略)アンダーソンは特許を取得し、クエーカーオーツ社と手を組み、同社の研究所でさまざまなものが膨らむかどうかの実験を行った。その後、米のポン菓子を「パフライス」として売り出した。
へえー、意外ですね。
日本での広がりについては、以下のように書かれています。
大正時代から昭和中期頃までは、定番のお菓子として子どもに人気があった。
日本陸軍においては携帯用の糧食として膨張精米を小札形状に押し固め、副食品と放送した「圧搾口糧」が開発・採用された。
お米ひとつをとっても、その中にいろいろな歴史があるのですね。
<東南アジアでのもっといろいろなお米の使い方>
東南アジアで暮らすようになって、私が日本で食べていた以上にお米の調理方法があることに驚きました。
まず、私の住んでいた国ではビーフンがよく食べられていることでした。
ビーフンは漢字で書くと「米粉」そのものですが、「ミンナン語や台湾語の発音『ビーフン』に由来する外来語である」(Wikipedia)ように、その国でもビーフンで通じました。
1980年代初頭までの日本でも、私自身、自宅で時々母がビーフンを調理していたのを食べていましたので、特に珍しいわけではありませんでした。
むしろ、こうして国境を越えてみんなに好かれる味や素材があることで、その国への敷居が一気に低く感じられたのでした。
こちらの記事の<本当はエスニック料理が好き>で書いたように、当時働いていたインドシナ難民キャンプでは、朝からベトナム料理三昧の日々でした。
そこで食べたフォーや春巻きの皮が、米からできていることにとても驚いたのでした。
日本で米粉といえば上新粉や白玉粉ですから、それを麺にしたりライスペーパーにするなんて聞いたこともありませんでしたから、同じ米を食べる文化でも発想の違いに感激したのでした。
帰国してしばらくすると、1990年代初めごろにはエスニック料理の材料も手に入れやすくなり、ライスペーパーや乾燥させたフォーを買って楽しむことができるようになりました。
<日本ではなぜ米粉が広がらないのだろう>
ここ数年ぐらいでしょうか。時々、米粉を使ったパンなどがテレビでも紹介されていますが、まだ身近になったというほどではない印象です。
米粉は米を製粉したもの、酷粉(こくこ)という。団子、餅、煎餅、麺類、米粉パンなどの原料となる。近年では特に、製粉技術の発達によって粒子を平均数十マイクロメートル以下まで細かく、損傷澱粉を少なくするなどして、従来の米粉(上新粉)より小麦粉の代用として使いやすく尾西粉末粉が注目されている。製粉技術の進歩に日本では、国産米(地元産米)の消費拡大につながる新たな需要が期待されている。
これを読むと、米粉の製粉技術がまだ整っていないことが日本の中で米粉が広がらなかった一因のようです。
ただ、ベトナムの人たちがあの難民キャンプで自分たちでフォーやライスペーパーを作っていたことを思うと、それほど難しい技術でもなさそうです。
その国の市場には、小麦や大豆、とうもろこしなどを製粉してくれる店が必ずあるのですが、そこで同じように米を粉にしてもらっていたようです。
それを水に溶いて、フォーにしたりライスペーパーにしていました。
どちらかというと、家内手工業的な技術でした。
日本では、なぜ米粉の調理法が広がらなかったのでしょうか。
「米のあれこれ」まとめはこちら。