助産師の世界と妄想 17 <「お産を家族に返す」ために手術の立ち会い?>

今日のタイトルは「思い込みと妄想」にしようか悩みましたが、やはり「助産師の世界と妄想」になりました。
「思い込みと妄想」の過去記事はこちらの記事の最後の一覧からどうぞ。


さて、「助産雑誌」2014年2月号(医学書院)の「『お産を家族に返す』当院での取り組み」というタイトルを見た時に、まず「お産を家族に返すとはどういう意味なのだろう」とつまずきました。
日本の周産期医療の中でなにかそう表現しなければいけない現実的な問題があるとしたら、それは何か知りたかったのですが、読み進めてもよくわかりませんでした。


ただ、「主役は産婦」という言葉が使われていたので、そのあたりが鍵なのかもしれません。


<「主役は産婦」?>


その病院は年間分娩数約1600件あり、不妊治療や無痛分娩にも力を入れている施設のようです。そのうち1割以上が40歳以上、3割ぐらいが35歳以上という割合のようです。


帝王切開の割合については書かれていませんでしたが、筆者は帝王切開について以下のように書いています。

女性は妊娠したい、自分の力で自然に産みたいと思います。しかし帝王切開が必要な状況が起こることもあります。産婦は、お腹を切るという恐怖に耐え、子どもが無事に生まれることを心から祈り、帝王切開で出産をします。手術は母体にリスクもあり、産後の育児のつらさは想像以上に大きいものです。自分のことより子どもを元気に産むことを一番に考え受け入れる出産方法、それが帝王切開でのお産だと考えます。


その施設での出産年齢の構成をみるだけで予定帝王切開や緊急帝王切開の割合も多く、たくさんの産婦さんやご家族の気持ちを受け止めてこられたのだろうと思います。


でもそのあとの文章に、あれっ?となりました。

 手術と決まった時に、主役は産婦でなく病院側に移っていないでしょうか。産婦も産科医師・麻酔科医師・小児科医師・助産師の考えが優先し、意向は聞いてもらえないと思う方も多いのではありませんか。私たちは帝王切開でも「主役は産婦」だと考えます。


帝王切開になった産婦さんの「意向」ってそんなに表現できるものでしょうか。
むしろ私は産婦さんや御家族が「現実と理想に折り合いをつける」過程を、こちらも忍耐強く対応するしかないのかなと受け止めています。


「主役は産婦」ってどういう意味なのだろうか。そう表現することに意味があるのだろうか、と。


<「帝王切開も家族立ち会いで」>


さて「帝王切開でも『主役は産婦』だと考える」のあとに、「家族で迎える出産 帝王切開も家族立ち会いで」という記事が続いています。


「家族を含めたケア」「もう1人産みたいと思える出産」が当院の分娩に対するモットーであり、帝王切開であっても家族の立ち会いを行っています。

「家族を含めたケア」につてはケアの語源と意味で書いたように、私自身がケアという言葉を消化しきれていないので「家族へのケア」とは何か言語化することができないでいます。


そして「もう1人産みたいと思える出産」については、 ケアする側の声はイデオロギーになりやすいのではと心の中に警鐘がなるのです。


<夫や子どもが帝王切開に立ち会うということ>


その記事では夫が帝王切開に立ち会うことで、具体的にどのような「家族で迎える出産」あるいは「お産を家族へ返す」ことになったかについては書かれていませんでした。


子どもの反応については、以下のように書かれています。

「お母さん、えらかったね。強かったね」


手術のあと、立ち会っていたこともが、母にこう言っていました。
「お母さん、えらかったね。強かったね。僕もこうやって産まれたんだね。すごいね」
こういわれた母親は、経膣分娩できなかったと悩まずに済むのではないでしょうか。そして、この子たちが大きくなって、自分や妻や友人が帝王切開で産むことになった時、よく頑張ったと心から言ってあげられる人にそだつことでしょう。

あーーなんだろう、この違和感は。
子どもの素直な表現には関心することもあるけれど、そこに過剰に期待してそう言わせる場面。
そうそう、胎内記憶とか誕生学とかにも通じる自己啓発の方向性なのかもしれません。


それにしても、看護学生の手術室実習ではそれぞれのグループで必ず気分が悪くなって倒れる学生がいました。
手術室というのはそれほど非日常的な光景と緊張感のある場所だと思っていましたが、そこに夫だけでなく子どもまで入れる発想というのは、どうも私にはあり得ない光景なのです。


結局、どのように「お産を家族にかえす」のかよくわからない内容でした。


<本質的なこと「見通しを伝える」>


もちろん大事な部分も書かれています。
「緊急で帝王切開になる時のケア」では、以下のように書かれています。

手術が決まってからではなく「可能性が出てきた時」に、産婦と家族に対しわかりやすく現状を伝えます。そして産婦はその時点でどう感じているか、帝王切開になることへの抵抗が強いのかを産婦に関わるスタッフが情報を共有しておきます。助産師と話をする時間、家族で話をする時間をとることで、手術に向かう産婦の心が置き去りにならないように、心の準備が十分にできる配慮を大切にしていきます。このような助産師のケアによって、手術が必要になり医師の説明を受ける際に、産婦や家族が帝王切開をスムーズに受け入れられていると感じます。


まあ、簡単そうですが、状況をみてぱっと必要なことが瞬時にわかるのが達人といえるでしょう。
産婦さんの表情、夫や家族の表情から今どのような一言が必要かを見抜くには、やはり地道な経験しかないのではないかと思います。


大事(本質的な)ことも書かれているのですが、「ああこれが助産師の世界だ」という残念な結語で終わっていました。

母児が安全に分娩できるように援助することは助産師としての職務です。加えて、妊娠期から患者の側に立ち、意向を尊重すること、これは経膣分娩であっても、帝王切開であっても変わりません。貧血や冷えのない体づくりが必要であることも変わりません。帝王切開で分娩になる可能性が誰にでもあり、予期せぬ帝王切開での分娩であっても、産婦が自分の分娩に肯定感をもち、分娩を誇れるように、助産師は全力を注ぐべきではないでしょうか。


あーあ、惜しいなあ。




「冷え」についての過去記事はこちら。

「『冷え』を科学する? 助産雑誌11月号」
「オカルトな世界がひろがる助産雑誌」
「『ペリネイタルケア1月号』おまえもか・・・」

助産師の世界と妄想」まとめはこちら