見守られて世界を広げ、見守られて世界を閉じる

父の最近の日常の変化を見ていると、私の仕事はその対極にある変化をみているのだと改めて思います。


父がソワソワしたり少し表情が険しくなると、「あ、トイレだな」とわかります。
「『妹』の前ではこらえたい」という羞恥心があるかもしれないと、できるだけ私は早めにスタッフの方にお願いしてその場を離れるようにしています。


でも時に、間に合わないのか紙おむつの中にしてしまうのでしょう。苦虫を嚙み潰したような表情になったことがありました。


新生児だとうんちが終わると満面の笑みになるので、そのあたりは自立して成長した人がその自立を失う過程での違いではありますが。


水の中から世の中に生まれ出た新生児にとっては、授乳のことよりも排泄の機能を得る段階にもう少し注目するとよいのではないかと思うのですが、そんなことを「人生最初のうんち」の意味」新生児にとって『哺乳行動』とは何かに書きました。


そして繰り返し繰り返し、誰かに常に見守られながら排泄の自律排泄の自立を獲得していきます。


そしてこちらの記事で紹介したマズローの理論にあるように、生理的欲求と安全に対する欲求を見守られながら、毎日、冒険のように世界を広げて行きます。
一見目的のないような足の動きが、いつの間にか寝返りにつながって達成感を得るように。


そうして段階を経て成長・発達し、複雑な思考や行動を獲得していくためには、いつでも誰かに安全のために見守ってもらう必要があります。


新生児でさえも、ぐずったり寝ないのはただ「お腹がすいた」だけではなく、こちらの記事に「置き去り防止センサー」と書いたように、世話をする人が「早く寝ないか」と思っただけでぐずり始めます。


そして生まれてすぐの新生児でもかなり激しい啼き方からそうでもない啼き方まで3段階ぐらいあり、それは「危険」を伝えようとしているのではないかということをこちらの記事に書きました。


ちなみに、私は電車や街の中で赤ちゃんの泣き声が聞こえるととても気になります。
それは「子どもに不寛容な社会」とか「子育て中の人への批判」ではなく、「この泣き声は危険を赤ちゃんなりに伝えようとしているのではないか」と気になってしまうからです。


激しい啼き方であればあるほど、周囲の人に「ちゃんと見ていてくれているか」と警告をしているように感じるからです。


その赤ちゃんの御家族は「これくらいの啼き方はいつも通り」と感じるかもしれませんが、だんだんと赤ちゃんの声のトーンがあがると、やはり何かを伝えたいのではないかと感じるのです。
正解は誰もわからないので、抱っこしてみたりあやしてみたりするしかないことでしょう。
周囲の人がそれをし始めれば、「あ、見守ってくれているから泣いていても大丈夫だろう」と一安心します。


赤ちゃんにすれば、家の中と外、あるいは電車の中の状況ではまるで冒険をしているかのように世界が違って見えることでしょう。
誰かがちゃんと見守っているよと表現してくれれば、「そうか大丈夫なのか」と安心して自らの世界を広げていくことができるのではないかと。


そうやって、私自身がぐずった時や眠らない時など両親や祖父母など多くの人の手によって見守られて、こうやって自立したのだと、新生児をあやしながら最近しんみりときます。


そして、今、父の背中をトントンとして安心させ、排泄や清潔、食事といった基本的欲求に気遣ったりしながら、父が自立して獲得した「世界」を少しずつ安全に閉じていく段階を見守っているのだと。