葛藤

父の面会の道すがら、秋の香りを感じるようになりました。
実際には8月初旬頃からふと秋の香りがしていて、の花の香りが強くなり始めます。


うだるような盛夏なのに、日差しが黄色みを帯びてくるように感じたり、草花の香りが変化し始めると、8月の初めごろから秋の気配を感じます。
立秋という言葉は人の感じ方の法則性が込められた言葉なのかもしれませんね。


そして9月に入ると葛だけでなく、さまざまな植物からの香りが混ざり合って秋の空気が漂っています。
くんくんと犬のように道ばたの草花を嗅いで歩いているのですが、この秋の香りの正体がいまだによくわかりません。





先日来、介護施設での「虐待」のニュースに対して、介護職の方々の実情を知って欲しいという声やそれに対する意見などをたくさん目にしました。


どの立場の声もわかるし、でも私自身もケアを職業としてきてあるいは親の介護でも、対象との関係性の中で時に理性の一線を超えてしまうのではないかというほど、自分の中に暴力性が潜んでいることの恐ろしさを感じ続けてきました。


それを一言で表すとすれば、「葛藤」なのかもしれません。


デジタル大辞泉では「葛藤」について以下のように書かれています。

葛(かずら)や藤(ふじ)のこと。枝がもつれ絡むところから
1. 人と人が互いに譲らず対立し、いがみ合うこと。「親子の葛藤」など。
2. 人の心の中に相反する動悸・欲求・感情などが存在し、そのいずれをとるか迷うこと。
3. 仏語。正道を妨げる煩悩のこと。(以下、略)


「ケアされる者とケアする者の葛藤」
その感情の奥底にある法則性のようなものがあるように思うのですが、職業人の倫理性の前にはそれを表現することはなかなか憚られることです。


あるいはなぜ自分が「ケアする側」になろうとしたのか。
それもまた崇高な志だけではない、自己実現の部分に大きく影響を受けていることに目をつぶりがちになるかもしれません。


ところで、日本大百科全書(ニッポニカ)の説明では、葛藤は英語では「conflict」のようです。
そして「この葛藤という概念を初めて使用したのは精神分析学を樹立したフロイト」とあります。


へえ、なんだか葛藤という日本語はずっと昔から使われていたのかと思っていたのですが、1世紀前には葛藤という概念さえなかったということになるのですね。


「conflict」を「葛藤」という日本語に訳したのは、いつ頃、誰だったのでしょうか。


今日のタイトルは「気持ちの問題」のほうがふさわしいのですが、あえて「植物」のカテゴリーにしました。


というのも、私はいつもこの葛が広がる様をみて、この葛を取り払う大変さから「葛藤」という言葉ができたのだろうと、あの香りとともにイメージしていました。


ところが、デジタル大辞泉には葛ではなくツヅラフジとして説明されていました。
写真で見る限りツヅラフジは簡単に手で草むしりできそうなので、やはり「葛藤」には葛のほうがふさわしいような気がするのですが、「葛藤」はもともとツヅラフジと読むのですね。


「葛藤(ツヅラフジ)」という植物名が先にあって、「conflict」の和訳に使われるようになったのでしょうか。
いやはや、知らないことばかりですね。