かかとをつかんで生まれる

20代で犬養道子さんの本に出会い、30代に入る頃から旧約聖書新約聖書を通読し始めたことは「聖書は失敗学」の中でも書きました。


犬養さんの「旧約聖書物語」といういわば手引書のような本がなければ、おそらく旧約聖書を読もうという気力はでなかったかもしれません。


ただ、旧約聖書の中には出産や医療に関係した場面がけっこうあるので、ちょうど助産師になったばかりの私を魅きつけていました。


たとえば、「出エジプト記」のモーセの誕生にも「助産婦」が登場します。

男児殺害の命令


エジプト王は2人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子どもの性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは助産婦が行く前に産んでしまうのです。」神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。


この一節を読むたびに、戦前の「産めよ増やせよ」の時代から戦後の「産児制限」へと日本の助産婦の仕事が変化したこと、あるいは1990年代頃の中国の一人っ子政策で女児が中絶させられていたことなどを思い起こします。


そして「少子化」も。
その時代の政治の風潮や権力の影響から、出産に関わる者はどうあるべきなのかを突き詰められる箇所でもあります。


また旧約聖書レビ記民数記はまぶたが重くなりそうな記述が延々と続いているのですが、その中にも当時の衛生に関する知識が書かれていてはっと目が覚める箇所があります。


さて、「帝王切開で生まれる」を書き始めてから、以前からずっと気になっていた箇所のことを思い出しています。


それが、「創世記25章」のエサウとヤコブの誕生」に書かれている以下の部分です。

月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。


ここ10年ぐらいで周産期医療に携わり始めた人たちには、「月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた」という記述でさえ理解できないかもしれませんね。


<妊婦健診と経腹エコー>に書いたように、1990年代まではまだ妊娠中期や後期、あるいは出産時になって「双子だ!」ということはしばしばありました。


現在のように妊娠初期から経膣エコーで双胎や多胎の管理が行われるようになったのはここ十数年ぐらいのことです。



さて、気になり続けているのは「その手がエサウのかかとをつかんでいた」の部分です。
ということは、ヤコブの上肢が頭より先に進んでくる上肢脱出ですから、現代なら超緊急帝王切開ですし、旧約聖書の時代ならヤコブは胎児縮小術がおこなわれても仕方がないような状況です。


よほどリベカの骨盤が広かったか、それともヤコブが小さくてなんとか通過したか。


この箇所を読むたびに、ちょっとドキドキするのです。
まあ、旧約聖書は象徴的な話の物語を、その時代の権力者側が編集したものなのですけれど。




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