乳児用ミルクのあれこれ 30 <安全優先のための計画授乳>

私が看護学生だった1970年代終わりの頃の産科病棟は、新生児室に赤ちゃんを預かり3時間ごとに授乳をする母児別室、規則授乳でした。
なぜそういう方法なのかあまり深く考えることなく、教科書にも「ミルクの消化時間が3時間」ぐらいしか書かれていなかったのではないかと思います。


数年後に助産師になった1980年代後半には、自律授乳という言葉が広がり始めていました。
まだ母子同室、自律授乳を取り入れる施設はほとんどなかったと記憶していますが、わずか数年の変化は大きいなと驚きました。


ただ、私自身はその間に東南アジアで暮らしたので、授乳時間なんて決められずに育っている赤ちゃんたちを見ていましたから、なぜ日本はこんなに「不自然な育児方法」なのだろうと規則授乳について疑問がありました。


長いこと、規則授乳はどうして始まったのかについても関心があったのですが、なかなかその歴史がわかるような文献もありませんでした。
お産の歴史と合わせて、私自身が生まれた頃あたりを行きつ戻りつ考えて行くうちに栄養と感染予防という観点から規則授乳が広がったのではないかと考えていたのですが、育児に対する考え方の変化から明治以降、自律授乳と規則授乳で揺れていたらしいことを最近になって知りました。


そして、もうひとつ人工乳を安全に乳児に飲ませるために、技術的にも規則授乳が必要とされていたことを、この「母乳が足りなくても安心」(二木武・土屋文安・山本良郎氏、ハート出版、平成9年)の中で知りました。


<「人工栄養の授乳法の発達」>


「時代と品質が変えた授乳の仕方」にはこのように書かれています。

 人工栄養は昔から牛乳をベースとしておもに行われてきました。けれども、わが国では明治から大正にかけて加糖練乳(コンデンスミルク)が一部で用いられ、大正になってからは粉乳も一部製造されるようになりましたが、人工栄養には牛乳が多く用いられてきました。しかし、その成績は不良だったのでミルクの調乳や改良の努力が続けられ、現在に至っています。

 人工栄養の授乳方法はミルクの品質によって変化することはいうまでもありません。ミルクの品質は、おおまかにいって二段階にわけることができます。牛乳および単純な粉乳時代から、現代の育児用ミルクへの進歩です。
 授乳方法も前段階の牛乳・粉乳時代はもっぱら計画(時間決め)授乳が行われ、後段階になってからは自律(欲しい時)哺乳がしだいに浸透してきたのです。(p.68)


看護学生だった1970年代の日本では牛乳ではなく育児用ミルクで育てることが当たり前でしたし、1980年代以降、東南アジアで暮らして村をまわっている時も育児用ミルクが購入できなければ早い時期からの混合食でしたので、牛乳を乳児に与えることの難しさに直面したことはありませんでした。


おそらく、このブログを読んでくださっている方も思いつかないのではないでしょうか?


<牛乳からの難しい調乳をしていた時代>


「安全優先が生んだ『計画授乳方式』」に、具体的にいつ頃まで牛乳をどのように薄めて飲ませていたのかが書かれています。

 昔の牛乳による人工栄養は成績がよくなくて、ことに消化不良を起こしやすいものですから、不信や不安感が長い年月にわかって続きました。実際、乳児の死亡率も高かったのです。

 牛乳による人工栄養は、まず牛乳を希釈する(薄める)ことから始められました。なぜならば、濃いままだと下痢をおこしやすい、あるいは強すぎるのではないかという心配から自然に薄めて用いたのでしょう。昭和25年頃までは、新生児期には3倍から5倍に牛乳を薄めて用いられました。もちろんこんなに薄くては発育によくないのですが、それよりも消化不良に対する安全性が優先されたのでしょう。

私もあと10年ほど早く生まれればこの牛乳を薄めたものしかなく、人生が変わっていたかもしれません。


 希釈した牛乳にエネルギーを高めるために糖そのほかの種々の栄養素を添加して工夫され、時代により、いろいろな使用あるいは指導がされたようです。
 昭和25年に「母子愛育会小児保健部会」が人工栄養の方式を提示しました。これは体重1kgあたり熱量120キロカロリー蛋白質は3.5gを基準として作られたものですが、この基準ではそれまでの方式にくらべて割合濃い調乳液が用いられたので、人工栄養による発育は急速に向上しました。
 この濃い調乳方式で赤ちゃんの発育はよくなり、それ以前に心配された下痢もそれほど頻発しなくなりました。しかし、逆に肥満児になったり発熱(水分の相対的不足のため)の原因になることがわかり、調乳の濃度が濃すぎて代謝負担になっているという反省がおきました。そこでもう少し薄くした方式が発表され使われ始めました。
 この頃までの人工栄養方式は、月齢がすすむにつれて牛乳の濃度や添加糖質の濃度が濃くなる方式で、調乳法がかなりやっかいなものでした。母親の手に余りがちで、その指導が保健所の栄養士の最も多い仕事になっていたくらいです。

 そしてこれらの授乳法王の特徴は、すべて月齢ごとにミルクの調乳液組成、一日回数、1回量、1日量がきちんと規定された「規則授乳」が原則でした。当時の人工栄養は消化不良を起こしやすいからとの配慮がなされたからです。
 その後、人工栄養のこの規則(計画)授乳方式は一般の常識として深く浸透し、その後にあらわれた自律授乳方式にはなかなかなじめないようでした。


このような状況が私が生まれる直前の、昭和30年代半ばまで続いたようです。


粉末にされていない牛乳ですから、その衛生的な管理には冷蔵庫も必需品だったことでしょう。
この牛乳から調乳して乳児に飲ませる方法は、病院などとても限られた状況だったのではないかと想像しています。


その後、「70%型調整粉乳時代(1950〜1959年)」「特殊調整粉乳時代(1959〜1979年)」そして「(新)調製粉乳時代(1979年以降)」と、改良を重ねながら粉乳の時代へと変化したようです。
ミルクの向上とともに、人工栄養でも自律授乳という発想がでてきたようです。


「規則授乳」にはこういう時代背景があるのかと、もうひとつ歴史のイメージが増えました。




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