食べるということ 7 <食べもののにおいと感情>

前回の記事で紹介した新約聖書の部分は、食物に対する気持ちが強い忌避感をもたらしたり、その食物を食べる人への侮蔑感をもたらすことの戒めとも読めるかもしれません。


宗教や文化的な背景を持つ食のタブーに対しては相手の状況を尊重する必要があると思いますが、「なぜだめなのだろう」という問いに明確な答えがないあたり、好きか嫌いかが正しいか間違っているかになりやすいあたりかもしれませんね。



さて、今日のタイトルの「におい」は「臭い」のニュアンスです。


タブーではなくて、食べものの好き嫌いを分けるのに臭いがあるのではないかと思います。


日本で代表的で日常的な臭いの強い食べものと言えば、納豆がありますね。
私の場合、父が納豆を大好きで母は臭いもダメという家庭でした。そして子どもたちは納豆が好きになりました。
今のように一人分の容器ではなく、昔は藁筒や経木にくるまれて売っていましたから、少しでも多く食べたいと競って食べていました。


人が食べていると強烈に感じる臭いなのに、食べている時にはおいしく感じるのは不思議ですね。
そして離乳食が完了したぐらいの赤ちゃんたちも喜んで食べるのを見ると、不思議な食べものだなあと思います。


ところが思春期ぐらいになると、急にあの臭いの強い納豆を好きな自分がなんだか恥ずかしくなるのも不思議ですね。
あの感情の変化はなんだったのでしょうか。


こういう臭いへの感情も、地域や国に対してとなると「相手を侮蔑する」「自分を卑下する」というやっかいなものになりやすいのかもしれません。


小学生の頃に読んだ本で題名も忘れてしまったのですが、開国した明治あたりの話だったでしょうか、外国人から「味噌は臭い」と言われて羞恥心をもった日本人が、外国に行き「臭いチーズ」に出会います。
そして双方が、食べてみたらおいしくて好きになったという話だったと記憶しています。


その本の記憶があったおかげで、私自身が東南アジアやアフリカで暮らす時にもそれぞれの地域や文化にそれぞれの食べものがあることを意識できました。


東南アジアには、小魚や小エビを塩漬けにして発酵させたものがあります。
地域によってもいろいろなタイプがありますし、年月をかけて熟成させたものはさらに臭いがきつくなります。


「臭いよ。日本人には無理だよ」とちょっと照れるように説明してくれた友人を前に、「おいしい!」と食べたところとても喜ばれました。
いえ、本当にイカの塩辛やアミの塩辛のようでご飯やキャッサバがすすむこと!


東南アジアではどうしても食べられない食品もありましたが、臭いの強い食品がうまみに変わるのはどこも同じに思えて、いろいろな地域の食事に関心を持ちました。
しばらく図書館で森枝卓士氏や小泉武夫氏の本を読みあさったのでした。




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