気持ちの問題 11 <リアリティのない現実「さて死んだのは誰か」>

先日、電車内の広告でまたお墓の広告を見つけました。


葬式や墓に関心のない私でも、まあ、お墓の耐震性は防災の観点から現実問題にはありうるかもしれないのですが、今回の広告には「うーむ、これは」と思ってしまいました。


そこには、「女性限定の区画」とか「高級感のある雰囲気」といった宣伝が書かれていました。


たしかに、「死後は義実家の墓には入りたくない」という声は現実にはよく耳にしますが、死んだら感情も感覚もなくなるのにな、そこまで人の気持ちはかたくなになるのかというのが私の受け止め方。
死んだら豪華な装飾も気にならないし、となりに生理的に受け付けないような異性のお墓が来ても仲の悪かった家族が一緒でも何も感じることはないのですからね。


いえ、まだ一度も死んだ経験がないのでわからないのですが。


「死」のリアリティが感じられない現実感のなさが現実、という矛盾を感じた宣伝でした。


<どのように、誰の手によって後始末をされるか>


でも、埋葬は私にも現実問題です。


今は産科診療所勤務なので、おもに人が生まれてくる瞬間に立ち会っている仕事ですが、それ以前勤務していた総合病院では同じ病棟内で誰かが生まれ、誰かが同じ頃に息を引き取るということもありました。


生まれるのと同じように死ぬのにも誰かの手を必要とするし、ご遺体をお見送りして埋葬が終わるまでもたくさんの手を必要とします。


今、それをしてくれる家族がいたとしても、いつかはひとりになって自分の人生の後始末をしなければいけなくなる可能性もあります。


いえ家族がいたとしても、むしろ家族だからこそ、それは家族にとっても相当な心身あるいは経済的な負担になるかもしれませんね。


社会保険やら銀行口座やらの手続きから、パスワードを必要としているさまざまなネット上の手続きなど、考えただけでもめまいがしそうです。


あ、このブログはどうなるのでしょうね。


こういう後始末のほうが実際には他の人の時間とお手間を取らせてしまうことになるので、葬儀やお墓にお金をかけるよりも、第三者をいれた生前契約など調べてみるのですが、なんだかまだ切実感がないのか二の足を踏んでいます。



<死んだ後には何も残したくない>



私自身は、死んだ後に自分が生きていたことの証のようなお墓は残したくないと思っています。



ただ、現実にはこういう感じ方は少数派なのかもしれません。
遺体を粗末に扱うことに耐えられないという気持ちや、現実に遺骨をどう処理するかという、残された側の生きている人たちの気持ちに大きく依存しなければいけない部分とも言えそうです。


散骨や自然葬も、撒かれるところに住んでいる人たちにとっては「死んだ人の灰」を生活圏に撒かれることは気持ちのよいことではないでしょうし。


せめて墓地という限られた土地内で適当に撒いてくれればいいし、何も残さなくてもよいのですけれど。


何かを残したいという感情で思い出すのが、「私とは何か」で紹介した本に書かれている話です。

「墓碑銘」と聞いて思い出す逸話がある・・・・


 古代ローマだったか、現代のローマにあるものだったか、秀逸なものが存在している。向こうはこちらと違い、墓にいろいろな書き物を遺す習慣がある。死後に他人が書いたものか、本人が生前に言付けていたものかは定かではない。
 おそらくそれは一般的には、文字通りの墓誌として、その人の来歴を示すものだろう。いくつで結婚、何児を成し、かれこれの仕事に従事して、こんなふうな人物だった。
 散歩代わりのお墓ウオッチング、読む者には、その意味での究極の楽しみである。人生つまり、その人間の最終形が、そこに刻印されている。人生の〆の一言である。人は、記された言葉から人物を想像したり、感心したりしながら読んでいる。
 と、そこにいきなり、こんな墓碑銘が刻まれているのを人は読む。「次はお前だ」。
 ラテン語だろう。そうでなくとも尋常ではない。楽しいお墓ウオッチング、ギョッとして人は醒めてしまうはずだ。他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は誰でも思い出すのだ。それを見越してこの文句。大変な食わせ者である。


 それなら私はどうしよう。一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。ならこんなのはどうだろう。「さて死んだのは誰か」。楽しいお墓ウオッチングで、不意打ちを食らって考え込んでくれる人はいますかね。



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