事実とは何か 3 <写真には何が写っているのか>

写真を撮られることが苦手ということをこちらの記事の冒頭で書きましたが、ちょっと自意識過剰になる中学生や高校生以降は、自分が写った写真が好きだった時期もありました。


いい表情に撮れている写真をみては、うっとり。
これをこう呼ぶことは知っていましたが、この年代というのは常に鏡を見ては自分がどんな風に見えるのか気になりますからね。


写真に写っている自分の現実に気づかされて目が覚めたのが、20代初めの頃でした。
東京デズニーランドがまだない頃、友人と西海岸に遊びに行きました。
お姫様のようなドレスを着て写真を撮る場所が園内にあって、思い出に撮ろうということになりました。


でき上がった写真を見て、田舎役者のような自分の姿にプッと笑い、そして赤面。
それ以来、なんだか自分の姿を写真に残すことに急にためらいが出たのでした。


それ以降、東南アジアで暮らしたり海外を旅行する時にも私自身を写すことはなく、ほとんどが風景の写真でした。
他の人にその写真を見せると、「え?何で写っていないの?」とあきれられていました。


<写真、写す人の意図の反映>


さて、このブログでも植物の記事をいくつも書いていますが、記事を書くにあたって手元にある植物図鑑をみたりネットで検索するたびに感じるのが、写真を見ても実物と同じように見えない違和感です。


野菊もそうなのですが、私が「見ていた野菊」とも違うように写真には写っているのですね。


あるいは、「この植物は何ていうのだろう」と家に帰ってから植物図鑑を探しても、なかなか同じように見えなくて戸惑うことがよくあります。


同じ植物を写していても、角度やどこに焦点をあてるかによってもその植物の全体像が違って写っている、という感じです。


ですから記事でリンクするサイトを選ぶ時には、私の目に映っているその植物と似ている写真を探すのに時々時間がかかってしまうことがあります。
そして写真だけでは不十分で、写実的な文章があることでようやくそれらしいと認識できることがしばしばあります。


以前も「自然なお産と写真・映像」「出産シーンを写真や映像で公開することの意味」という記事を書きました。


写真には何が写っているのだろう。
不思議ですね。




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