記憶についてのあれこれ 84 <「エレファント・マン」>

「障害」というと、必ずと言って思い出されるのがエレファント・マンという映画です。

19世紀のロンドン。生まれつき奇形で醜悪な外見により「エレファント・マン」として見せ物小屋に立たされていた青年、ジョン・メリック(ジョン・ハート)。肥大した頭蓋骨は額から突き出、体の至るところに腫瘍があり、歪んだ唇からは明瞭な発音はされず、歩行も杖が無ければ困難という状態だった。


この映画を知ったのは、皮膚科の授業でした。


この皮膚科の先生とは卒業後も一緒に働かせていただいたのですが、私にとっては今もなお最も尊敬できる医師のお一人です。
学生の私たちにも患者さんにもいつも穏やかな口調で話され、医学や看護を学び始めたばかりの私たちにもとてもわかりやすい授業でした。


とりわけ尋常性乾癬や自己免疫疾患など、20代頃から一生涯つき合わなければならない病気を解明していくことへの熱意などが感じられました。
あ、当時その病院では自己免疫疾患も皮膚科として扱われていました。
当時50歳前後だったあの先生を突き動かしていたものは何だったのだろうと、年を経るに従ってますます気になっています。


その先生の授業の中で、エレファント・マンの症状からそれはレックリングハウンゼン病の可能性があるという話がとても印象に残っていました。



あまり映画を観に行くことはなかったのですが、この映画は観に行きました。
ただ今はもうほとんど内容の記憶はなくて、たしかポスターに布袋を被ってその奥に目がひかっていた青年が写っていた記憶がある程度です。


リンク先のWikipediaの「批評」を読むと、森卓也氏の「結局ヒューマニズムより猟奇趣味の方がこの監督の本質」という発言など、あまり芳しくなかったようです。
ただ私には「猟奇的」とは思えなかったのは、もしかしたらこの医学的な知識が先にあったからかもしれません。


ジョセフ・メリックの生涯>


Wikipediaは本当にすごいですね。このエレファント・マンとして描かれたジョセフ・メリック氏についての詳しい説明がありました。


35年ほど前にこれだけの内容が映画パンフレットにあれば、もう少し社会の評価は違っていたかもしれませんね。
それにしても、誰がこの説明を書かれたのでしょうか。
あの映画について今になってこんなに詳細な情報を得られて、当時そのままになっていた感情を整理できる日がくるとは。


この説明を読むと、ジョセフ・メリック氏は見世物小屋に「立たされた」のではなく、救貧院での生活から逃れる為に自ら見世物小屋に立つことを望んだようです。


幼少時には2人の弟がそれぞれ天然痘と猩紅熱という感染症で死亡、妹も障害があり、母親もまた肺炎で死亡。
1歳半頃から全身に腫瘍が広がり、4歳頃からは関節炎などで次第に歩行困難。徐々に外見が変わっていく中で、学校を卒業後に行商人として仕事を始めます。

12歳で公立学校を卒業し、葉巻を製造するメッサーズ・フリーマンズは撒き製造会社に就職。しかし2年後には右腕の変形が進んで離職せざるを得なくなり、父の支援の元に行商人の免許を取得し、父の衣料品店の商品である靴下や手袋などを売り歩いたものの、容姿が災いして営業は困難を極めた。

やがてかねてからの継母との不仲もあり家出、簡易宿泊所を泊まり歩く生活に入ったのち、以前からメリックに好意的であった叔父のチャールズ・バーナース・メリックの家に同居人として迎えられたが、このころにはすでに症状の進行によって、彼が街で売り歩くと周囲にパニックを引き起こすほどになっており、ほどなく行商人免許を剥奪された。やがて自らの意思で叔父の家を出、レスター市救貧委員会に出頭、就労不能を理由に救済を申し立てて受理され、1879年12月、17歳でレスター・ユニオン救貧院に入った。


なんと過酷な17年間だったことでしょうか。
自分がメリックだったらと考えると、その社会への恐怖感に襲われそうになります。
それがまだわずか150年前の、日本とは比較にならないほど福祉が進んでいたイギリスの話なのですから。


<医学が疾患を客観的に見るきっかけを作った>


「街で売り歩くと周囲にパニックを起こすほど」の存在だったメリックを受け入れたのが、見せ物興行の人たちでした。この4人についてはあまり書かれていませんでしたが、ただ金儲けのためだけではなくメリックの人生に心を動かされた部分もあるのかもしれません。
彼の半生を綴ったものを、興行のパンフレットに使ったことが書かれています。

メリック自らが半生を綴ったとされる「ジョセフ・ケアリー・メリックの自伝」("The Autobiography of Joseph Carey Merrick")と題された小文が掲載されたパンフレットも販売されていた。その小文には、彼の奇形が「彼の母親が彼を妊娠中、五月祭りで町を訪れた移動動物園のパレードを見物しにいったところ、誤って行進して来た象の足元に転倒、強い恐怖を味わったことが原因」だと書かれていたが、興行師はこれと同じことをメリックの見世物の開演前に、客に口上として申し述べ、客の好奇心を煽っていた。


そしてもうひとり、メリックに積極的に近づいた医師トレヴェスについて書かれています。

この年11月、ノーマンはメリックをロンドンの外科医であったフレデリックトレヴェスはこのことをきっかけとしてメリックの存在を知り、自ら診察。トレヴェスは12月にはロンドン病理学会でジョセフの症例を報告し、このときにはジョセフ自身も標本として回覧に供されている。翌年3月には同学会で再びメリックの症例をテーマとした、写真を用いての研究発表が行われ、これをもとにロンドンのユニーバーシテイ・カレッジの内科医ヘンリー・ラドクリフ・クロッカーはジョセフを「皮膚弛緩症および神経腫性象皮病」と診断した。

「象」と「象皮病」は無関係である。
現代もそういった不合理な恐怖心がいたるところにあります。
病気と因縁、あるいは老いや病への大きな不安といったものから人を解放するのが、医学的な視点だったといえるのかもしれません。


もうひとつ「医師たちが見たメリック」が書かれています。

トレヴェスは自らの後輩である研修医たちに、空き時間を利用してメリックを見舞うように命じていた。それに従っていた研修医のひとりウイルフレッド・グレンフェルは後に著した自伝「ラブラドルの一医師」のなかで、メリックが自分の容姿を神経質に気にしていたと、また正常であった左手を誇りとしていたことを記し、レジナルド・ダケットもまた、メリックが感じていた自分の左手への誇りや、美しいものや立派な衣服を好む彼の嗜好を語っている。一方でD.G.ハルステッドは回想録に、彼の顔は象よりもバクに似ていると思った、だが「バク男」では見世物小屋のキャッチフレーズとしては不適当だったろう、と冷ややかな観察を記し、メリックのもとをたずねた後、他の持ち場に戻るときにはほっとするのが常だった、とも告白している。


「冷ややかな観察」というよりも客観的な観察といえそうですし、メリックの人生への同情や恐怖心といった感情にも巻き込まれないことによって、初めて相手の状況が見えてくる。それが医学的な観察の第一歩といえるのではないかと思います。


また、人が初めて重い障害を持った人を前にすると、その人生の重さに自分の方が耐えられなくなり、「生まれなかった方が良かったのではないか」という気持ちになるのではないでしょうか。


ところが医学的な視点がはいることで、少し見方がかわるのかもしれません。
「他の持ち場に戻るときにはほっとするのが常だった」という率直な感想は、重荷としてのケアをしている自分をも客観的に見ているからともいえそうです。






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