記憶についてのあれこれ 91 <良い習慣が残る>

人が認知症に対して抱く不安には、記憶が失われていくこともあると思いますが、それまで社会的な存在として身につけてきた数々の習慣が失われていくことへの不安もあるのではないかと思います。


身の回りのことができなくなったり、周囲の人への対応ができなくなったり、時には人格までも変化してしまうのではないかと。


たしかにそういう面もありますが、父や父と一緒に暮らしているたくさんの認知症の方を見ていると、案外、人の「良い習慣」は残るものかもしれないと感じます。


タオルを畳むのを手伝ったり、入浴日には他の患者さんの世話をしたり、あるいは車いす同士がぶつかりそうになる前に車いすを押してあげたり、自分にできることをしながら「社会の顔」があります。


入所してきたばかりで不安そうな患者さんのおしゃべり相手になっている人もいます。


それまでの人生で積み重ねてきた行動がでてくるのかもしれませんね。


<父の良い習慣>


父の場合には、昔から感謝と気遣いの人でした。


今も、身の回りのことや車いすへの移動をしてくれるスタッフに、その都度「どうもありがとう」と言います。


また、ホールへコーヒーを飲みに行く時にも、周囲のスタッフに「あなたも一緒にどうぞ」と声をかけるので、スタッフの方からも「本当に優しいですね」と驚かれます。


食べることに対しては、ちょっと子どもに戻ったようなところがあります。
お菓子やコーヒーをテーブルに出すと、身を乗り出すようにしてすぐに食べ始めようとします。
「ちょっと待ってね。のどにつかえないように小さくするから」という時間も待てなさそうに、手が出ます。


ところが、あるところまで食べると、「あなたの分はあるか。これも食べなさい」と私に分けてくれようとします。
「大丈夫、まだたくさんあるから」と言うと、安心してまた食べるのです。


そっと私の分も父のお皿に載せると、それは気づかないようで、「おいしい、おいしい」と食べてくれます。
持って行ったお菓子はだいたい3対1ぐらいで父に食べてもらうようにしています。


私はいつでも食べられるし、それに小さい頃から、父はいつも「わしはもうおなかいっぱいだからいい」と、自分は食べずに子どもたちに食べさせようとする人でしたから。


私たちのことは気にしなくていいから、思う存分、父が食べてくれればうれしいと思っていますが、今でもなお、「あなたの分はあるか」と気にしてくれる様子に、良い習慣というのは残るのかもしれないと思うようになりました。


<良い習慣とは>


「良い習慣」という言葉を意識したのは、犬養道子さんの本に書かれていたことがきっかけでした。
細かい内容は覚えていないのですが、「どうぞとありがとう」もそのひとつです。


あるいはものの片付け方に書いたように、毎日、お風呂場やキッチンの水滴を拭き取ることもそうです。


最初は面倒だったり、言葉に表現することに抵抗があっても繰り返すことで、体の一部になっていきます。


コトバンクの日本第百科全書(ニッポニカ)の「習慣形成」に以下のように説明されています。

習慣形成とは、早い時期に行われることがたいせつであるとされている。このため、幼児期が習慣形成の適時期とされ、家庭・幼稚園・保育所での教育の課題となる。なかでも「基本的生活習慣」とよばれる食事、睡眠、排泄(はいせつ)、着脱衣、清潔についての習慣と、「社会的習慣」と呼ばれる挨拶(あいさつ)、後かたづけ、物を大切にする、生活のルールを守るなどの習慣の形成が目ざされる。また安全を守る習慣も重視されてきている。習慣形成には、やりたくないことを強要してはいけないが、同じように繰り返し行うようにすることが必要である。できるだけ例外を少なくする。また、子どもの周囲にいるもの、とくに親が、形成したい習慣について、つねによいモデルになっていることが重要である。子どもは、模倣しながら学習する特性をもっており、習慣形成においても親の日常的生活態度が強い影響を及ぼす。

年齢が高くなるにしたがい、それぞれの習慣的行動のもつ意味を理解するようにすることが望まれる。よく噛んで食べるという食事の習慣は消化をよくするためのものであるなどである。また、子どもが自分から進んで一定の習慣的行動をとるよう、やろうとする気持ちをおこさせることが必要である、このためには、よくできた場合、賞賛してやるなどのくふうをする。

習慣形成によって、自分の身の回りのことが自分でできるようになり、自立心が育つとともに、社会的な適応もでき、社会化された個人の確立に役立つ。

1960年代〜70年代の文献が参考にされているようですが、古さを感じさせないのは本質的な部分なのかもしれません。


繰り返し身につけて行く習慣の「良い」「悪い」とはどういうことだろう、と犬養さんの本からずっと考えているのですが、「良い」というと好きか嫌いかが正しいか間違っているかのように、正しいかどうかのニュアンスになりやすいのかもしれません。


犬養道子さんの本に貫かれているのは、他者の間で生きる自分を意識したものなので、「良い習慣」というのは相手も自分も穏やかな気持ちになれる、そんなあたりかもしれません。


それがpublicという概念につながっていくのだろうと思います。


挨拶にしても掃除にしても良い習慣が繰り返されるということは、自分だけでなく他者を意識することで、そこには小さなpublicが形成されていく。
そんな感じでしょうか。


そして一旦身につけた良い習慣は、記憶が失われていってもけっこう残るものなのだと、父を見て勇気をもらっています。





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