今は街中にあふれていると言っても良いほど、手軽に食べられる餃子です。
もともとは中国の料理だと思うのですが、「日本の国民食」(日本餃子協会)という呼び名まであるのですね。
私が子どもの頃から、餃子は身近な、でもちょっと手をかけた贅沢なごちそうとして食べていました。
今のように、冷凍食品やチルド食品はなかったし、スーパーなどのお惣菜として買う物でもなく、家で作るか中華料理店で食べるものでした。
小学生だった1960年代後半には、家で餃子の皮に具を詰めるのを手伝っていた記憶があり、今と同じようにラー油の小袋が着いた市販の餃子の皮も手軽に買えていました。
4人家族でしたが、1回に100個ぐらいは作っていたのではないかと思います。
小さい頃から餃子を作ることを手伝っていたので、今でもかなりきれいに形を作ることができます。
小学校中学年ぐらいになると、白菜やキャベツを細かく切ることを任されるようになりました。
細かく刻んで水気を絞る作業は辛いのですが、餃子食べたさに頑張ったのだろうと思います。
白菜かキャベツ、時々ニラを入れるぐらいで、あとは塩こしょう、ニンニク、生姜といったシンプルで変わりのない具でしたが、本当においしいごちそうでした。
いつ頃だったか、両親のどちらかが、「中国では焼かずに茹でるだけで食べるらしい」とトリビアを教えてくれて、「焼いた方が絶対に美味しいのに」と印象に残りました。
<案外、歴史はわずか>
その後、餃子は満州から引き上げて来た人たちから広がった話なども、どこからともなく知りました。
それでも1960年代生まれの私には第二次世界大戦はずっと昔のことでしたから、餃子もずっと昔からあるように感じていました。
よく考えれば、私が生まれる少し前頃から、日本中に餃子が広まって定着したのではないかと思います。
こんな時にはWikipediaですね。
「日本の餃子」の「歴史・状況」にはこう書かれています。
日本国内で初めて餃子を食べた人物は江戸時代の徳川光圀とされており、亡命した朱舜水から教わったという。明治時代までにも餃子を出す中華料理店は存在し、料理書でも作り方は紹介されている。しかし、呼び名はチャオツなど言語の音をそのまま使い、「メリケン粉に包んだもの」や「焼いた豚饅頭」などという解説をつけなければならないほど、庶民には縁遠い存在であった。
日本で一般の日本人が食べられるようになったのは第二次世界大戦後で、関東軍や満州開拓団などの引揚者によって広く普及するに至った。しかし、米飯が主食のおかずとして、水餃子ではなく薄目の皮を使用した焼き餃子が主流となった。以降、大衆的な日本人向けの中華料理店やラーメン店、また餃子専門店、スーパーやデパートの総菜コーナーなどで広く扱われ、家庭の手軽な総菜として定着している。
おそらく母にしたら成人するまでは食べたことがないものだったと思います。
いつ頃、どうやって餃子の作り方を知って、我が家の定番料理になったのでしょう。
NHKの「今日の料理」のテキストは毎月購入していたので、あのあたりでしょうか。
そして当時、どんな雰囲気であの餃子が日本中の家庭で作られるようになったのでしょうね。
今度、母に会ったら是非聞いてみようと思います。
<餃子のあれこれ>
東南アジアで暮らしてから、世界各国の料理本にも関心が出て図書館で借りていましたが、モンゴルやネパール、ブータンなど世界各国に水餃子に似たものがあることもその時に知りました。
やはり美味しいものは世界共通で広がっていくのかもしれませんね。
90年代になると、世界や日本各地のそれぞれの地域の餃子を食べる機会が増えてきました。
なんといっても印象に残ったのが、福岡の鉄鍋餃子でした。
焼き方もおもしろかったのですが、柚子胡椒で食べるのは想定外でした。でも、あっさりしていて、ふだんの酢醤油・ラー油に飽きた時には時々この方法で食べていました。
最近では1本の柚子胡椒を使い切れないので、結局は食べ慣れた酢醤油・ラー油に戻っています。
一時期、なんちゃってヴェジタリアンだったときには、肉は食べないけれど餃子を食べたいという葛藤から生み出したのが、ヒジキとツナの餃子でした。
当時はマグロとエビもやめていたのですから、この時のツナ缶だけは自分の中で許していたのでしょうね。こだわりなんて、ほんといい加減なものですね。
時々、発作的に作りたくなる餃子は、白菜かキャベツと豚ひき肉というシンプルなものばかりになりました。
ニンニクさえもいれず、塩・こしょうと生姜があっさりして好きです。
そうだ、今夜は餃子にしよう!
元気が戻った証拠かもしれません。
「記憶についてのあれこれ」のまとめはこちら。