記憶についてのあれこれ 93 <「記憶インプランテーション」>

幼少時の記憶にはどのようなものがありますか?


私はいくつかあります。
ひとつは、生まれてから3歳頃まで住んでいた家の中庭で、母親に抱っこされて青空を眺めていた時に、「ブーン」という音とともに飛行機(プロペラ機)が通り過ぎて行った風景がくっきりと記憶にあります。
あれは、何歳頃だったのだろうと思い返すのですが、まだ母の腕のなかにすっぽりと収まるぐらいなので、2歳前後なのでしょうか。


もうひとつ、兄弟が入退院を繰り返していた時にその病院で見た光景です。
病院のトイレで、全身包帯を巻いた患者さんが倒れていて、母が悲鳴をあげるようにして看護師さんを呼びに行ったのです。
あれは3歳頃だったのではないかと思います。


それから、やはり3歳頃のことですが、自転車の後ろの座席に乗せてもらって走り出したところで、私の踵が車輪に巻き込まれて大出血をおこしてしまいました。痛みの記憶はあまりないのですが、周囲の人も出血の量に驚いてすぐに近くの病院へ連れて行ってくれた日のことがくっきりと記憶にあります。


<この記憶は本当なのだろうか>


さて、この「記憶についてのあれこれ」の記事を書いている時に、いつも「これは本当に記憶していたことだろうか」「それとも後付けでイメージが膨らんだものなのだろうか」と思い返しては、記憶と言うのはなんと漠然としたものだろうとその不確かさに不安になることがしばしばあります。


記憶ってなんだろう。
その根本となるものが私にはわかっていない。
そんな不安です。


たとえば、上記の病院のエピソードも、母が時々そのことを話していました。「トイレに行ったら、全身包帯だらけの患者さんがトイレで倒れていたの。びっくりしてすぐに看護師さんを呼んだのに、『大きな声を出さないでください』って反対に叱られちゃった」と。
もしかしたら、母の話から、その光景をイメージしたものが私の記憶になっているのかもしれません。


踵の怪我については、アルバムに1枚の写真があります。
大きなギプスをして寝ている3歳頃の私の写真です。
3歳だと、もしかすると少しはその状況を覚えているのかもしれませんが、母や周囲の人たちが狼狽している状況や時系列まで理解して記憶するほどの、複雑な「概念」があるのでしょうか。


幼少時の記憶と言うのは、周囲の人が語った話によって、後に形作られているものもあるのかもしれないと、そのわずかに残った記憶の中の光景を思い返しています。


<「記憶を植えつける」>


こちらの記事で紹介した菊池聡氏の「錯覚の科学」(放送大学教材、2015年)を読んでいたら、その疑問への答えが書かれていました。


「第6章 記憶の錯覚 人の記憶は確実なのか」の「(2)記憶インプランテーションの方法と特徴」に以下のように書かれています。
 

1994年10月5日付けのニューズウィーク(日本語版、p.62-63)に「『偽りの記憶』のメカニズム」という記事が掲載された。この冒頭に、ワシントン大学で行われた驚くべき実験が紹介されている。14歳の少年、クリスは、5歳のころにショッピングセンターで迷子になったときのことを思い出すように言われた。実際はそのような出来ごとを思い出すことができなかったクリスだが、数週間後には迷子になったときのことを鮮明に、そして詳細に思い出すことができた。衝撃的なのは、クリスはそんな経験はしていない、ということだ。つまり、クリスは、ショッピングセンターで迷子になったというフォールスメモリー(false memor;偽りの記憶)を「植えつけられた」のである。 (p.97)


そしてその「記憶インプランテーション」を大学生に実験した結果が紹介されています。

ハイマンら(Hyman et al. 1995)は、こうした記憶インプランテーションを、周到な準備のもの、もう少し大規模に行った。まず、大学生の両親に手紙を送り、その大学生が2歳から10歳の間に経験した出来ごとを尋ねた(たとえば、病院に連れて行かれた経験や家族旅行の経験など)。実験参加者の大学生には、こうして集められた実際に経験された出来事と一緒に、実際には起こっていない出来事について、あたかも実際に起こったことのように質問し、面接で報告してもらった。3回の面接の結果、実際に経験した出来事は、当然のことながら、毎回多く報告された。これに対して、実際には起こっていない出来事(たとえば、子どものとき、家族の友人の結婚披露宴で走り回り、誤ってテーブルの上のパンチボールの中身をこぼして、花嫁の両親にかけてしまったことなど)は、初回の面接では「思い出される」ことはなかったが、2回目、3回目と回を重ねるごとに、「思い出した」人数が増えて行ったのである。(p.97~98)

さらに、次の研究では、実験参加者が尋ねられた出来事を思い出すことができない場合に、その出来事をイメージして面接者に報告するように求めると、3回目の実験では、約40パーセントの参加者が経験していない出来事を事実として報告するようになることが見い出された(Hyman&Pentland. 1996)。またこの記憶インプランテーションは、個人の視覚的イメージの能力(イメージを鮮明に思い浮かべることができるかどうか)によっても影響を受けることが報告されている(Hyman& Billings. 1998)。鮮明な視覚的イメージの持ち主は、記憶を植えつけられてしまう傾向が強かったのである。


専門的なことはわからないのですが、この章の冒頭に書かれていることを知っているかどうかだけでも、だいぶ怪しい話とは距離が置けるのかもしれません。

私たちが日常的に経験する記憶の問題の多くは、ある出来事や知識を思い出すことができないという忘却に関わるものであろう。しかし、記憶に関する最もやっかいな問題は、自分自身が正しいと信じている記憶の内容が、ゆがんでいたり、時には、全く間違っていたりすることがあるというところにある。間違った記憶を正しいものと信じてしまう「記憶の錯覚」は、どのようにして起こり、どのような帰結を私たちにもたらすのだろうか。



「記憶についてのあれこれ」のまとめはこちら