境界線のあれこれ 65 <「安全のための抑制」から「すべきではない身体拘束」へ>

新生児や乳児をぐるぐる巻いても、「それは身体拘束である」という認識がたぶんまだ社会にはないのだろうと思います。
だから、「英国のキャサリン妃が使ったスワドリング」といった感じで、好意的に受け止められ広がっていくのでしょう。


でも、同じように子どもや高齢者をぐるぐる巻きにしたら、どう受け止められるでしょうか?
自らの体を巻きたいというおとなまきといった発想は別として、通常はどのような理由があってもそれは身体拘束であると思うのではないでしょうか?


では、乳児であればよくて、ある年齢からは身体拘束になるのでしょうか?


<身体拘束とは>


こちらこちらの記事に、父がミトンをしていることを書きました。


皮膚のかゆみが強い部分があって、かきむしってしまうためです。


医療や介護施設では、ミトンといえば「身体拘束のための抑制帯」です。


2回目の脳梗塞で半身麻痺になってから、父は身体が拘束されている状況が増えました。
発症してしばらくは自分で寝返りもうてない状態でしたが、それでもベッドから転落することが続いたので、とりはずせないようにベッド柵を固定することになりました。
その時点で、「身体拘束に関する同意書」を書きました。


車いすに乗れるぐらいに回復すると、車いすからずり落ちないように安全帯をつけています。


あるいは、まだ自由に体が動いていた頃に生活していたグループホームも、今の介護病棟も本人が外には出ることができない閉鎖病棟ですが、これも広い意味での「身体拘束」といえるかもしれません。


どれも父の安全のためではあるのですが、身体を抑制帯などで拘束することは「してはいけないこと」という認識にここ20〜30年ほどで大きく変化しました。


私が看護師になった1980年代初頭では、まだ、抑制帯は看護側の判断で自由に使っていました。
「抑制」という非常に強い人権に反する言葉であるにもかかわらず、「点滴を抜いてしまうから」「勝手に動いてせっかくの治療や手術がうまくいかなくなるから」という理由が優先されていた時代でした。


その後、少しずつ「患者さんに抑制帯を使うことは最小限にするべき」という考え方が受け入れられ、さらに「原則、禁止」という段階にまで変化しました。



検索すると、厚労省が2006年に出した「身体拘束に対する考え方」という資料の一部が公開されていました。
そこにはこのように書かれています。

平成12年の介護保険制度の施行時から、介護保険施設などにおいて、高齢者をベッドや車いすに縛りつけるなどの身体の自由を奪う身体拘束は、介護保険施設の運営基準において、サービスの提供に当たっては、入所者の「生命又は身体を保護するため緊急やむを得ない場合を除き」身体拘束を行ってはならないとされており、原則として禁止されています。

高齢者が、他者からの不適切な扱いにより権利を侵害される状態や生命、健康、生活が損なわれるような状態に置かれることは許されるものではなく、身体拘束は原則としてすべて高齢者虐待に該当する行為と考えられます。


私自身が医療の中で30数年働いてきて、この身体拘束に対する意識の大きな変化を実感してきました。
新卒の頃には、患者さんに抑制帯を使うことにどこか心が傷むことはありましたが、「禁止されるべきこと」「虐待」という認識にまで社会が変化するとは思っていませんでした。


抑制帯についてのこの変化を思い出すたびに、「前近代的な感覚」がまたひとつ打ち破られて、人として解放されたような気がするのです。


<現実には抑制帯もゼロにはできない>



「抑制しなければ無理だと考えずに抑制しない方法を考える」という雰囲気は浸透しているのだと思いますが、実際にはすぐにゼロにすることは無理です。


たとえば2001年に厚労省が出した「身体拘束ゼロへの手引き」の18ページに、「皮膚をかきむしらないように手指の機能を制限するミトン型の手袋をつける」に対して「身体拘束しない工夫のポイント」が提示されています。


父の入院している施設では、60人近い入所者に対して日勤でも10名ぐらいしかいないスタッフなのに、軟膏処置や入浴をこまめにしてくださっています。それでもかきむしるので、やむを得ないと思っています。


そしてスタッフの方々は「ごめんなさいね。ミトンをつけさせてもらっています」と申し訳なさそうに声をかけてくださるのですが、「それはできるだけしてはいけない身体拘束である」という認識があるからだと思っています。


一見、30年ほど前と同じ抑制帯ですが、使う側の意識が大きく変化しています。



抑制帯を使わない理想的な状況には簡単には変化できませんが、理想と現実の中で折り合いをつけながら変化をしている段階ともいえることでしょう。


おひなまきとかスワドリングには、そういう「身体を拘束している」という視点がすっぽりと抜け落ちているように感じるのは私だけでしょうか?





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