境界線のあれこれ 67 <ケアの中の善意と暴力性>

小学生の頃に読んだ、雪舟が柱に縛られながら涙でネズミの絵を書いた話は、子供心に恐いものでした。
半世紀前の日本の社会にはまだ虐待とか体罰という言葉は広がっていなかったし、私が恐いと感じてもそれは「厳しいしつけ」の意味でした。


私も何かの理由で、「しばらく入っていないさい」と親に夜、物置に閉じ込められましたから。


当時、児童憲章ができてわずか十数年の時期でしたが、児童憲章全文の大半のことが実現され始めたことはすごい変化だったのだろうと思います。


ただ、次の箇所を除いては。

十  すべての児童は、虐待・酷使・放任その他不当な取り扱いからまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。

「虐待・酷使・放任その他不当な取り扱いからまもられる」
この部分に関して、社会が同じ方向を向いて「児童をまもる」ことが難しい理由は、大人側がそれは本当に「子どものため」なのかと突き詰めて行かなければいけないからかもしれません。


それでも「虐待はいけない」という認識は広がりました。


<暴力性の部分は比較的理解されやすい>



今でも子どもへの体罰のニュースがあとを絶たないし、「しつけのために必要」という言い方もまだ生き残っているのですが、それでも半世紀前の大人の感覚とは大きく変化したのではないかと思います。


Wikipedia暴力には、「他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力をいう。だたし、心理的虐待やモラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある」とありますが、この場合「他者」というのは身体的・精神的、社会・経済的に弱い立場と同じといえるかもしれません。



成人に対するケア(介護や看護)では、ケアされる側の患者や入所者からスタッフへの暴力もありますが、多くの場合はケアされる側が弱い立場になりうることでしょうし、子どもへのケア(保育)であれば子どもは圧倒的に弱い立場になります。



半世紀前なら大人側の気分で子どもを暴力的に扱ったり、放置したり無視したりすることが「しつけ」として許されていたものが、たとえそれが生活のためでもエジコにいれるようなことは、してはいけないことであると社会の認識が変わったのは本当に大きな変化だと思います。


<「しつけのため」に代わって「子どものために」>


大人がカッとなったり苛立って子どもを邪険に扱う暴力性はわかりやすいのですが、「しつけのため」ともまた違う「子どものために」という一見穏やかな方法にも、暴力性が潜んでいるのではないかと 助産師と自然療法について考えていくうちに感じるようになりました。


必要な栄養や医療を避けて、必要ではなさそうなさまざまな大人側のこだわりを子どもに押し付けていることが増えているのではないか。


大人側の「良い子」という思い込みに合わせるために、「子どものためにそれをする」と。


それは時にケアというのはやりがいという麻薬 のような喜びがあり、ケアする側の満足感や自己実現と深く結びついていることに無自覚だからではないかと思えるのです。


こちら記事で紹介した「ケアの人権」を繰り返し繰り返し自分に問い続けなければ、善意のケアに潜む暴力性は姿形を変えて繰り返すのかもしれません。

1. ケアする権利
2. ケアされる権利
3. ケアすることを強制されない権利
4. (不適切な)ケアされることを強制されない権利


特に4番目と、「ケアはニーズのあるところに発生し、順番はその逆ではない」上野千鶴子氏、「ケアの社会学ー当事者主権の福祉社会」)について問い続ける必要があるのではないかと思います。


言葉で「それはいらない」「それは危険」と表現できない、胎児や新生児、乳幼児には、善意のケアもどきを行わないように、大人側の歯止めが必要と言えるでしょう。


そろそろ、「良い子になる」といった子ども向けの療法には法的な制限が必要な時期に入って来たのかもしれません。





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